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宮内庁書陵部本『古今著聞集』:橘成季
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320 左大弁宰相経頼卿前の妻の腹に最愛の小女ありけるを・・・
text:chomonju:s_chomonju320
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宮内庁書陵部本『古今著聞集』:橘成季
奥書
古今著聞集序
1(序) 天地いまだ分かれず渾沌鶏の子のごとし・・・
2 内侍所は、昔は清涼殿に定め置き参らせられたりけるを・・・
3 延長八年六月廿九日夜貞崇法師勅を承りて・・・
4 三井寺の鎮守新羅明神は沙竭羅竜王の子なり・・・
5 慈覚大師如法経書き給ひけるとき白髪の老翁杖にたづさはりて・・・
6 北野宰相殿は天神四世の苗裔なり・・・
7 一条院の御時上総守時重といふ人あり。千部の法華経読誦の願・・・
8 長暦二年に天台座主の闕出できたりけるに・・・
9 同年中大中臣佐国祭主になりたりけるを・・・
10 延久二年八月三日上総国一の宮の御託宣に・・・
11 後三条院の御時国の貢ぎ物広田の御前の沖にて多く入海の・・・
12 大学寮の廟供には昔猪鹿をも供へけるをある人の夢に尼父の宣はく・・・
13 知足院殿内覧の宣旨を停められさせ給ひたることありけり・・・
14 元永元年四月九日顕通大納言中納言右衛門督にて公卿勅使奉りて・・・
15 基隆朝臣周防国を知りけるころ保安三年十月に語りけるは・・・
16 坂戸の左衛門大夫源康季は年ごろ賀茂につかうまつりけり・・・
17 保延五年一日祈雨の奉幣ありけり・・・
18 隆覚法印保延五年に興福寺別当になりたりけるを・・・
19 いつごろのことにか徳大寺の大臣熊野へ参り給ひける・・・
20 応保二年二月二十三日中納言実長卿日吉の行幸の賞にて従二位を・・・
21 仁安元年六月仁和寺の辺なりける女の夢に・・・
22 治承四年九月高倉院厳島に御幸ありけり・・・
23 興福寺の僧のいまだ僧綱などには上らざりけるが・・・
24 誰と聞き侍りしやらん名をば忘れにけり・・・
25 前摂津守橘以政朝臣若くより賀茂につかうまつりけるに・・・
26 俊乗房東大寺建立の願を発してその祈請のために大神宮に詣でて・・・
27 熊野に盲の者斎灯をたきて眼の明かならん事を祈るありけり・・・
28 助の僧正覚讃は先達の山伏なり那智千日行者大峰数度の先達なり・・・
29 承元四年正月十六日大外記良業死たりける・・・
30 前大和守藤原重澄は賀茂につかうまつりて大夫尉までのぼりたるものなり・・・
31 大夫史淳方若かりける時常に賀茂へ参りけり・・・
32 二条宰相雅経卿は賀茂大明神の利生にて成りあがりたる人なり・・・
33 仁安三年四月二十一日吉田祭にて侍りけるに・・・
34(序) 地神の末に当たりて釈迦如来天竺に出で給ひけり・・・
35 わが朝の仏法は聖徳太子広め給へる所なり・・・
36 当麻寺は推古天皇の御宇に聖徳太子の御勧めによりて・・・
37 行基もろもろの病人を助けんがために有馬の温泉に向ひ給ふに・・・
38 嵯峨天皇の御時天下に大疫の間死人道路に満ちたりけり・・・
39 弘仁五年春伝教大師渡海の願をとげんがために・・・
40 智証大師御起文云・・・
41 聖宝僧正十六にて出家して始めて元興寺にて三論の法文を学び・・・
42 吏部王記曰・・・
43 香隆寺僧正寛空は河内国の人なり・・・
44 寛忠僧都は寛平法皇の孫兵部卿淳固親王の子・・・
45 承平元年の夏ごろ貞崇法師東寺の坊にて経を読みけるに・・・
46 浄蔵法師はやんごとなき行者なり・・・
47 念仏三昧修することは上古には稀なりけり・・・
48 千観内供は顕密兼学の人にて公請にも従ひけり・・・
49 一条院大僧都定昭は法相宗兼学の人なり・・・
50 性信二品親王は三条院末の御子御母は小一条大将済時卿女なり・・・
51 永観律師は病者にて侍りけるが常のことぐさに病は是善知識なり・・・
52 平等院僧正行尊は小一条院の御孫侍従の宰相の子なり・・・
53 大原の良忍上人生年二十三よりひとへに世間の名利を捨てて・・・
54 少将の聖も大原山の住人なり・・・
55 仁平二年七月二日、定信入道宇治左府に参りたりければ・・・
56 摂津国に清澄寺といふ山寺あり・・・
57 西行法師大峰を通らんと思ふ志深かりけれども・・・
58 永万元年六月八日寅時蓮華王院の兵士が夢に・・・
59 承安二年三月十五日六波羅の太政入道福原にて持経者千僧にて法華経を・・・
60 高倉院の御時炎旱年をわたりけるに・・・
61 解脱房遁世の後壺坂の僧正のもとに湯治のために忍びて・・・
62 鎌倉右大将上洛の時天王寺へ参らせられたりける・・・
63 源空上人は一向専修の人なり・・・
64 高弁上人幼くては北の院の御室に候はれけり・・・
65 越後の僧正親厳若かりける時たびたび大峰を通りけるに・・・
66 後鳥羽院聖覚法印参上したりけるに・・・
67 南都高天寺に住む僧ありけり長谷へ参りて通夜して候ひけるに・・・
68 神祇権少副大中臣親守年ごろ大般若一筆書写の志ありけれども・・・
69 使庁の結縁経は長保元年三月十日始めて行なひて・・・
70 ここかしこ修行する僧ありけり名をば生智といふ・・・
71 湛空上人嵯峨の二尊院にて涅槃会を行はれける時・・・
72 いつごろのことにか書写上人みづから如法如説に法華経書き給ひけるに・・・
73(序) 治世之政万方靡然・・・
74 延喜聖主位につかせおはしまして後・・・
75 神泉苑正殿を乾臨閣と名付けて近衛の次将を別当にして・・・
76 村上の御時南殿に出御ありけるに諸司の下部の年たけたるが・・・
77 昔は人の装束もなえなえとしてありける・・・
78 後朱雀院の御時旬に参りたりける上達部を御覧じて・・・
79 小野宮殿九条殿御同車にて出仕せさせ給ひける時・・・
80 後三条院の御時隆方が権左中弁にて侍りけるを越えて実政を左中弁になされにけり・・・
81 同じ院律令式格にたがはずと宣命に書かせさせ給はせけるを・・・
82 匡房中納言は太宰権帥になりて任に赴かれたりけるに・・・
83 寛治八年十月二十四日亥時ばかりに内裏焼亡ありけり・・・
84 徳大寺左府中院の右府を越えて右大将になり給ひにけり・・・
85 光方廷尉の佐にて着駄の政につきたりけるに・・・
86 治承四年六月二日福原に都遷りありけるに・・・
87 治承四年秋のころより伊豆国の流人前の右兵衛佐頼朝謀反の聞こえありけり・・・
88(序) 正朔の節会より除夜の追儺に至るまで公事の礼一つにあらず・・・
89 宇治殿侍従にならせたまひて後能通臨時の祭の舞人を辞したりける時・・・
90 一条院の御時束帯にて殿上の日給にはあふべきよし起請ありけるに・・・
91 万寿二年踏歌の節会に右大臣内弁にて陣に付きて宣命見参を見給ひける間・・・
92 宇治大納言隆国卿中将になりたりける年・・・
93 いづれの年にか白馬の節会に進士の判官藤原経仲参りたりけるに・・・
94 寛治八年正月二日殿の臨時の客ありけるに・・・
95 久安三年十一月二十日豊明節会内大臣内弁を勤め給ひけるに・・・
96 仁平元年正月一日院の拝礼ありけり・・・
97 仁平二年五月十七日最勝講行なはれけるに・・・
98 内宴は弘仁年中に始まりたりけるが長元より後絶えて行なはれず・・・
99 後白河院御熊野詣藤代の宿につかせおはしましたりけるに・・・
100 建久のころ月輪の入道殿摂籙にて公事どもおこし行はれけるに・・・
101 建久のころ中山太政入道殿大納言にて県召の除目に三ヶ夜出仕せさせ給ひて・・・
102 承元二年十二月九日京官の除目行なはれけるに・・・
103 後鳥羽院公事の道を深く御沙汰ありけるに・・・
104 後鳥羽院ひそかに大内に御幸なりて白馬節会の習礼ありけり・・・
105 天慶五年五月十七日内裏にて蕃客のたはぶれありけり・・・
106(序) 伏羲氏の天下に王としてはじめて書契を作りて・・・
107 応神天皇十五年に百済国より博士経典をあひ具して来たる・・・
108 天暦六年十月十八日後江相公の夢に白楽天来たり給へりけり・・・
109 天暦の御時朝綱文時に仰せられて文集第一の詩選びて奉るべきよし・・・
110 安楽寺作文序を相規が書きけるに・・・
111 蒼波路遠雲千里白霧山深鳥一声・・・
112 前途程遠馳思於鴈山之夕雲後会期遥霑纓於鴻臚之暁涙・・・
113 都良香竹生島に参りて・・・
114 晴後山川清といふことを以言つかうまつりけるに・・・
115 後徳大寺左大臣前の大納言にておはしける時人々をともなひて・・・
116 不是花中偏愛菊此花開後更無花これは元稹が秀句なり・・・
117 いづれの年にか天下に疫病はやりたりけるにある人の夢に・・・
118 大内記慶滋保胤六条宮に参じて下問の時こと時輩の文章に及びけるに・・・
119 白河院の御時高麗国より医師を申したりけるに・・・
120 江中納言匡房卿承徳二年都督に任じて下りけるに・・・
121 尚歯会は唐の会昌五年三月廿一日白楽天履道房にして初めて行ひ給ひける・・・
122 永久三年七月五日式部大輔在良朝臣御侍読にて・・・
123 勧学院の学生ども集まりて酒宴しけるにおのおの議しける・・・
124 康治三年甲子に当たりけり・・・
125 仁平のころ宋朝の商客劉文冲東坡先生指掌図二帖五代記十帖唐書九帖・・・
126 仁平三年五月二十一日院宣によりて宇治左大臣東三条にて学問料の試を・・・
127 保元二年四月二十八日蔵人所にて直講の試ありけり・・・
128 少納言入道信西が家にて人々集まりて遊びけるに・・・
129 後徳大寺の左大臣納言の時昇進滞り給ひけるほどに・・・
130 治承二年五月晦日内裏にて密々に御作文ありけり・・・
131 高倉院の風月の御才は昔にも恥ぢぬ御事とぞ世の人申しける・・・
132 文治三年九月七日暁秀才長官為長夢に権右中弁定長朝臣北野宮寺にて・・・
133 ある人連句のたびごとに想像花陽洞と定まれることに言ひけり・・・
134 村上帝隠れさせ給ひて後枇杷大納言延光卿朝夕恋しく思ひ奉りて・・・
135 後三条院東宮にておはしましける時学士実政朝臣任国に赴きけるに・・・
136 中納言顕基卿は後一条院ときめかし給ひて・・・
137 菅丞相昌泰三年九月十日の宴に正三位の右大臣の大将にて・・・
138 後江相公の澄朝におくれて後後世をとぶらはれける願文に・・・
139 橘正通が身の沈めることを恨みて異国へ思ひ立ちける境節・・・
140 東三条院関白前太政大臣九月十三夜の月に東北院の念仏に参り給へるに・・・
141 天暦の御時橘直幹が民部大輔を望み申しける申文を・・・
142(序) 和歌は素戔烏の古風より起こりて久しく秋津州の習俗たり・・・
143 嵯峨天皇玄賓上人の徳を尊び給ひて僧都になし給ひける・・・
144 弘徽殿女御の歌合に花かうじしらまゆみといへる文字くさりを・・・
145 花山院御ぐしおろさせ給ひて後・・・
146 同じ院東院にわたらせ給ひけるころ・・・
147 東三条院皇太后宮と申しける時七月七日撫子合させ給ひけり・・・
148 一条院の御時正暦四年五月五日帯刀の陣に十番の歌合ありけるに・・・
149 いつのころのことにか殿上の人々歌詠み侍りけるに泰憲民部卿・・・
150 嘉保三年正月三十日殿上人船岡にて花を見けるに斎院選子より柳の枝を賜はせけり・・・
151 平等院の僧正諸国修行のとき摂津国住吉のわたりに至り給ひて・・・
152 基俊城外しけることありけり・・・
153 ある所に仏事しけるに唐人二人来たりて聴聞しけるが・・・
154 天永元年斎宮の群行ありけるに・・・
155 久寿元年二月十五日法皇美福門院御同車にて・・・
156 保元の乱によりて新院讃岐国にうつらせおはしましにけり・・・
157 西行法師法勝寺の花見にまかりけるに・・・
158 平治元年二月二十五日御方違へのために押小路殿に行幸ありけり・・・
159 応保二年正月のころ殿下女御殿の御方の女房をともなはせ給ひて・・・
160 長寛のころ六角左衛門督家通中将にて侍りけるに仰せられて・・・
161 永万元年九月十四日五更におよびて頭の亮の書札とて紙屋紙に立文たる文を・・・
162 同じ御時のことにやいろはの連歌ありけるに誰とかやが句に・・・
163 馬助敦頼出家のすなはち大納言実国のもとへ詣でたりけるに・・・
164 祭主神祇伯親定伊勢国いはでといふ所に堂を建てて瞻西上人を請じて・・・
165 嘉応二年十月九日道因法師人々を勧めて住吉社にて歌合しけるに・・・
166 同じき二年この歌合のことを広田大明神海上よりうらやませ給ふよし・・・
167 伊通公の参議の時大治五年十月五日の除目に参議四人・・・
168 御堂関白大井川にて遊覧し給ひし時詩歌の船を分かちて・・・
169 帥民部卿経信卿またこの人に劣らざりけり・・・
170 後三条院住吉社に臨幸ありける時に経信卿序代を奉られけり・・・
171 能因入道伊予守実綱にともなひてかの国に下りたりけるに・・・
172 待賢門院の女房に加賀といふ歌詠みありけり・・・
173 中ごろなまめきたる女房ありけり・・・
174 和泉式部男のかれがれになりけるころ貴布禰に詣でたるに蛍の飛ぶを見て・・・
175 同じ式部が娘小式部内侍この世ならずわづらひけり・・・
176 江挙周和泉の任去りて後病重かりけり・・・
177 鳥羽法皇の女房に小大進といふ歌詠みありけるが・・・
178 元永元年六月十六日修理大夫顕季卿六条東洞院の亭にて柿下大夫人丸供を行ひけり・・・
179 昔夫婦あひ思ひて住みけり男戦に従ひて遠く行くに・・・
180 わが国の松浦佐夜姫といふは大伴狭手麿が女なり・・・
181 昔大納言なりける人の御門に奉らんとてかしづきける女を内舎人なる者盗みて・・・
182 小野小町が若くて色を好みし時もてなしありさまたぐひなかりけり・・・
183 和泉式部保昌が妻にて丹後に下りけるほどに京に歌合ありけるに小式部内侍・・・
184 匡房卿若かりける時蔵人にて内裏によろぼひ歩きけるを・・・
185 伏見修理大夫俊綱の家にて人々水上月といふことを詠みけるに・・・
186 ある人の家に入りて物乞ひける法師に女の琴弾きて居たるが・・・
187 中納言通俊卿の子に世尊寺阿闍梨仁俊とて顕密知法にて尊き人おはしけり・・・
188 天暦の御時月次の御屏風の歌に擣衣の所に兼盛詠みていはく・・・
189 左京大夫顕輔新院に参りたりけるに百首詠むやうは習ひたるかと・・・
190 花園左大臣の家に初めて参りたりける侍の名簿の端書きに・・・
191 公任卿の家にて三月尽の夜人々集めて暮れぬる春を惜しむ心の歌詠みけるに・・・
192 別当惟方卿は二条院の御傅にて世に重く聞こえけるが・・・
193 後鳥羽院の御時定家卿殿上人にておはしける時・・・
194 壬生二位家隆卿八十にて天王寺にて終り給ひける時・・・
195 宗家大納言とて神楽催馬楽歌ひてやさしく神さびたる人おはしき・・・
196 徳大寺の右大臣うちまかせては言ひ出でがたかりける女房のもとへ・・・
197 三河守定基心ざし深かりける女のはかなくなりにければ・・・
198 醍醐の桜会に童舞おもしろき年ありけり・・・
199 亭子院鳥養院にて御遊ありけるに・・・
200 河内重如をば山二郎判官代と申しけり・・・
201 和泉式部忍びて稲荷へまいりけるに・・・
202 宇治入道殿に候ひけるうれしさといふはした者を顕輔卿懸想せられけるに・・・
203 承安二年三月十九日前大宮大進清輔朝臣宝荘厳院にて和歌の尚歯会を行ひけり・・・
204 かの清輔朝臣の伝へたる人丸の影は・・・
205 養和二年春賀茂神主重保また尚歯会を行ひたりけり・・・
206 高倉院の御時八月二十日ごろに人々神楽をし侍りけるが・・・
207 建春門院皇太后宮にておはしましける時公卿殿上人女房どもさそひて・・・
208 同じ卿左衛門督にて侍りける時家に歌合し侍りけるに頼政朝臣立春の歌に・・・
209 少将隆房賀茂の祭の使勤めけるに車の風流よく見えければ・・・
210 治承のころ人々安芸の厳島へ参られけるも風あしくて・・・
211 仁和寺の佐の法印若くて醍醐の桜会見物のついでに・・・
212 円位上人昔よりみづから詠み置きて侍る歌を抄出して三十六番につがひて・・・
213 解脱上人のもとに信濃といふ僧ありけり・・・
214 鳥羽の宮天王寺別当にてかの寺の五智光院におましありけるとき鎌倉の前右大将・・・
215 同じ大将守山にて狩りせられけるに苺のさかりになりたるを見て・・・
216 あるなま侍がもとに草を売りて来たりけるを・・・
217 土御門院初めて百首を詠ませおはしまして・・・
218 松殿僧正行意赤痢病を大事にして存命ほとんど危なかりけるに・・・
219 陰明門院中宮の御時六事の題を出だして人々に思ふことを書かせられけり・・・
220 後鳥羽院の御時木工権頭孝道朝臣に御琵琶を作らせられけるを・・・
221 順徳院御位の時当座の歌合ありけり・・・
222 西音法師は昔後鳥羽院の西面に平時実とて幼くより候ひし者なり・・・
223 法深房そのかみ父朝臣と不快のころ・・・
224 家隆卿七十七になられける年七月七日九条前内大臣のもとへつかはしける・・・
225 寛元元年二月九日雪三寸ばかり積もりたりける暁冷泉前右府参内し給ひける・・・
226 宝治元年二月二十七日西園寺の桜盛りなりけるに御幸なりて御覧ぜられけり・・・
227 住江に御幸なるべしとて神主修理を加へけるに・・・
228 成源僧正は連歌を好む人にてその房中の者どもみなたしなみければ・・・
229 入道右大弁真観を仙洞の御会にたびたび召しありけれども・・・
230(序) 管絃のおこりその伝はれること久し・・・
231 貞保親王桂川の山荘にて放遊し給ひけるに・・・
232 延喜四年十月大井川に行幸ありけるに雅明親王御船にて棹をとどめて・・・
233 同じき二十一年十月十八日八条大将(保忠)中納言の時勅をうけ給ひて・・・
234 延長四年正月十八日内裏にて桜花の宴ありけり・・・
235 同じき六年常寧殿にて三月尽の宴ありけり・・・
236 同じき七年三月二十六日踏歌後宴の負けわざ次第のことども果てて御遊ありけり・・・
237 天慶八年正月五日右大臣家にて饗を行なはれけるに・・・
238 天暦元年正月二十三日内宴を行はれけるに重明親王勅を承りて琴を弾き給ひけり・・・
239 同じき三年四月十二日飛香舎にて藤花宴ありけり・・・
240 同五年正月二十三日宴行なはれけるに・・・
241 同じき七年十月十三日内裏にて庚申の御遊びありけり・・・
242 康保三年十月七日舞御覧ありけるに小野宮右大臣童にておはしけるが・・・
243 いづれのころのことにか大宮右大臣殿上人の時南殿の桜盛りなるころ・・・
244 博雅卿は上古にすぐれたる管絃者なりけり・・・
245 殿上の其駒は知りたる人少なし・・・
246 管絃はよくよく用心あるべきことなり・・・
247 宇治殿平等院を建立させ給ひて延久元年夏ごろ初めて一切経会を行はせ給ひけり・・・
248 後冷泉院の御時白河院に行幸ありて花宴侍りけるに・・・
249 大弐資通卿管絃者どもを伴ひて金峰山に詣づることありけり・・・
250 篳篥吹き遠理が父阿波守にて下向の時・・・
251 志賀僧正明尊もとより篳篥を憎む人なりけり・・・
252 後三条院は管絃をば御沙汰なかりけり・・・
253 永保三年七月十三日、主上殿下南殿の巽の角に御座ありて・・・
254 大宮右相府薨去の後七々忌果てて人々分散しけるに大納言宗俊卿・・・
255 源義光は豊原時元が弟子なり・・・
256 堀河院の御時六条院に朝覲行幸ありけるに・・・
257 前の所の衆延章は名誉の者なり・・・
258 嘉保二年八月八日院に行幸ありて相撲を御覧ぜられける・・・
259 長治二年正月五日朝覲行幸ありけるに胡飲酒中院右大臣童にて舞ひ給ひけり・・・
260 嘉承二年三月五日鳥羽殿に行幸ありて六日和歌の興ありける・・・
261 堀河院の御時節会に常よりも急ぎ入御ありけるを・・・
262 季通の言はれけるは非管絃者は口惜しきこと・・・
263 同じ院の御時楽敵のことありけり・・・
264 楽所預小監物源頼能は上古に恥ぢさる数寄の者なり・・・
265 知足院殿何事にてかさしたる御望み深かりけること侍りけり・・・
266 侍従大納言雲林院にて鞠を蹴られけるに雨にはかに降りたりければ・・・
267 天永三年三月十八日御賀の後宴に舞楽果てて御遊の時・・・
268 京極太政大臣内裏よりまかり出で給ひけるに月おもしろかりければ・・・
269 舞人多資忠死去の後胡飲酒採桑老の曲かの氏に絶えにければ・・・
270 保安五年正月朝覲行幸に近方採桑老をつかうまつるべきにてありければ・・・
271 大神元政多近方がもとへ早朝に来たれることありけり・・・
272 保延元年正月四日朝覲行幸に多忠方胡飲酒をつかうまつりけるに・・・
273 同じき三年正月四日朝覲行幸に輪台出でんとしける。・・・
274 同じき三年六月二十三日宇治左府内大臣におはしましける時・・・
275 同じき五年の宇治の一切経会に雨降りて四日行なはれけり・・・
276 ある所にて会遊ありけるに時元笙を吹けるがしばらく休みけるに・・・
277 知足院殿仰せられけるは万秋楽ゆるるかに吹くべしと人はみな知りけれども・・・
278 同院箏を弾かせ給ひける折初夜の鐘はつきぬるかと御尋ねありけるに・・・
279 鳥羽院八幡に御幸ありて御神楽行なはれけるにみづから御笛を吹かせ給ひけり・・・
280 康治元年三月四日仁和寺の一切経会に両院御幸ありけるに・・・
281 同じき二年八月新院青海波を御覧じけり・・・
282 久安三年九月十二日法皇天王寺へ御幸ありけり・・・
283 同じき三年十一月三十日院にて舎利講を行なはれけり・・・
284 同じき六年十二月大宮大納言隆季卿殿上人の時左近府の抜頭の面形を・・・
285(序) 尺牘の書疏は千里の面目なりといへり・・・
286 嵯峨天皇と弘法大師と常に御手跡を争はせ給ひけり・・・
287 大内十二門の額南面三門は弘法大師西面三門は大内記小野美材・・・
288 延喜の聖主醍醐寺を御建立の時道風朝臣に額書き進らすべきよし仰せられて・・・
289 知足院入道殿法性寺殿と久安のころより御仲心よからずおはしましける時・・・
290 大納言なる人の若公を清水寺の法師に養はせけり・・・
291 法深房が持仏堂をば楽音寺と号して・・・
292 行成卿いまだ殿上人のころ殿上にて扇合といふことありけるに・・・
293 弘法大師は筆を口にくはへ左右の手に持ち左右の足にはさみて・・・
294(序) 術道一つにあらずその道まちまちに分かれたり・・・
295 御堂関白殿の御物忌に解脱寺僧正観修陰陽師晴明医師忠明武士義家朝臣参籠して・・・
296 陰陽師吉平医師雅忠と酒を飲みけるに・・・
297 九条大相国浅位の時何となく后町の井を立ち寄りて底をのぞきけるほどに・・・
298 宇佐大宮司なにがしとかや癩病を受けたるよし聞こえありて・・・
299 野宮左府幼くおはしける時母儀さまをやつして具し奉りて・・・
300 後鳥羽院御熊野詣ありけるに陰陽頭在継を召し具せられけるに・・・
301(序) 孝者天之経也地之誼也人之行也・・・
302 式部大輔大江匡衡朝臣の息式部権大輔挙周朝臣重病を受けて頼み少なく・・・
303 六条右大臣隆俊中納言と大内を見歩き給ひけるに・・・
304 京極大殿の北政所例ならぬことおはしましけるに・・・
305 軼人監物頼能重病を受けたりける時大納言重通卿みづから行き向ひて・・・
306 後白河院在藩の御時保延五年十二月廿七日待賢門院の御所三条殿にて・・・
307 師能弁漢書の文帝紀置き失ひて歎き思ひけるに・・・
308 宇治左府の御記に・・・
309 建春門院は兵部大輔時信が女なり・・・
310 法源房当道の秘事口伝故実残ることなく書きて・・・
311 昔元正天皇の御時美濃国に貧しく賤しき男ありけり・・・
312 白河院の御時天下殺生禁断せられければ国土に魚鳥のたぐひ絶えにけり・・・
313 武則公助といふ随身父子ありけり・・・
314 中納言顕基卿は後一条院ときめかし給ひて・・・
315(序) 伊弉諾伊弉冉二の神礙馭慮島におりゐてともに夫婦となり給ふ時・・・
316 中関白馬内侍に忍びて通ひ給ひけるを・・・
317 一条院の御時三条后宮のぼり給ひけるに・・・
318 道命阿闍梨と和泉式部とひとつ車にてものへ行きけるに・・
319 刑部卿敦兼は見目のよに憎さげなる人なりけり・・・
320 左大弁宰相経頼卿前の妻の腹に最愛の小女ありけるを・・・
321 妙音院の大臣忍びたる女を迎へさせ給ひて・・・
322 後白河院の御所いつよりものどかにて近習の公卿両三人女房少々候ひて・・・
323 紫金台寺の御室に千手といふ御寵童ありけり・・・
324 ある宮腹に忍びて参り通ひ給ふしかるべき上達部おはしけり・・・
325 頭中将忠季朝臣督典侍を心がけて年月を重ねけれども・・・
326 大宮権亮といひける人ある宮腹の御方違の御車寄に参りたりけるに・・・
327 野宮左大臣若くおはしましける時、・・
328 宮内卿は娚にてある人に名立ちし人なり・・・
329 ある人大原の辺を見歩きけるに心憎き庵ありけり・・・
330 山に慶澄注記といふ僧ありけり・・・
331 第八十七代の皇帝後嵯峨天皇と申すは土御門天皇の第三の皇子なり・・・
332 いつのころのことにか男ありけり・・・
333(序) 武者禁暴戢兵保大定功安民和衆豊財是武七徳也・・・
334 嵯峨天皇をば人思ひかけ参らせたりけるに田村丸を近衛将監になし給ひて・・・
335 頼光朝臣寒夜にものへ歩て帰りけるに頼信の家近く寄りたれば・・・
336 伊予守源頼義朝臣貞任宗任等を攻むる間・・・
337 同じ朝臣十二年の合戦の後宇治殿へ参て戦ひの間の物語申しけるを
338 十二年の合戦に貞任は討たれにけり・・・
339 同じ朝臣若ざかりにある法師の妻を密会しけり・・・
340 九郎判官義経右大将の勘気の間都を落ちて西国の方へ行きける時・・・
341 古郡の左衛門尉平貞綱が京の家に強盗入りたりけるに・・・
342 承久三年の乱れに宇津宮越中前司頼業いまだ無官なりけるが・・・
343(序) 弓矢之藝其勢専一也・・・
344 延長五年四月十日弾正親王内裏にて小弓の負態せさせ給ひける・・・
345 長暦二年三月十七日殿上人十余人野宮へ参りたりけるに・・・
346 寛治八年八月三日滝口大極殿にて賭弓のことありけり・・・
347 頼光朝臣の郎等季武が従者究竟の者ありけり・・・
348 一院鳥羽殿にわたらせおはしましけるころみさご日ごとに出で来て・・・
349 このむつるの兵衛尉懸矢をはがすとてたうの羽を求めけるが・・・
350 同じ人のもとにまた賀次新太郎といふ弓の上手ありける・・・
351 ある所に的弓射けるに晩に及びければ・・・
352 左衛門尉平助綱はつやつや弓引きはたらかすことかなはざりける者なりけり・・・
353(序) 神事の庭には競馬を先とし公事のみぎりには青馬をはじめとす・・・
354 正暦二年五月二十八日摂政殿右近の馬場にて競馬十番を御覧じけり・・・
355 寛治五年五月二十七日二条大路にて放ち飼ひしける馬を取りて・・・
356 いづれの摂籙の御時にか東三条にて雲分といふあがり馬を乗られけるに・・・
357 天治元年十月二十一日鳥羽院寛治の例を尋ねて高野に御幸ありけり・・・
358 保延三年八月六日仁和寺殿の馬場にて日吉御幸の内競七番ありけり・・・
359 後鳥羽院の御時の競馬に・・・
360 承安元年小五月会にて侍りけるにや秦公景下野敦景・・・
361 小松内大臣右大将にておはしける時佐伯国方一座にて侍りける・・・
362 播磨府生貞弘が家近く陰陽師ありけり・・・
363 後白河院の御時鎌倉前右大将御馬を百疋参らせたりける・・・
364 武蔵国の住人都築の平太経家は高名の馬乗り馬飼ひなりけり・・・
365 一条の二位入道のもとに高名の跳ね馬出で来たりけり・・・
366 建仁三年十二月二十日北野宮寺に御幸ありて競馬十番ありけるに・・・
367 承元元年より三ヶ年が間新日吉の小五月会に・・・
368 坊門大納言左衛門督にて侍りける時建暦の御禊の行幸に・・・
369 建保五年新日吉の小五月会に新院の番長秦頼峰府生同武澄・・・
370(序) 相撲は最手占手あるいは左あるいは右・・・
371 延長六年閏七月六日中の六条院にて童相撲のことありけり・・・
372 相撲宗平儀同三司の御もとへ参りたりけり・・・
373 いづれの年にか相撲節に勝岳と重義合ひたりけるに・・・
374 このことは後一条院の御時のことにや相撲の節に久光といふ相撲・・・
375 承徳二年八月三日滝口所の衆等方を分けて馬場殿にて相撲あるべしと・・・
376 尾張国の住人おこまの権守若かりける時京に宮仕へして侍りけるが・・・
377 佐伯氏長初めて相撲の節に召されて越前国より上りける時・・・
378 宇治左府随身公春を不便なる者に思し召したること・・・
379 中納言伊実卿相撲競馬なとを好みて学問なんどをばせられざりけるを・・・
380 鎌倉前右大将家に東八ヶ国うちすぐりたる大力の相撲出で来て・・・
381 近ごろ近江国海津に金といふ遊女ありけり・・・
382 鳥羽院の御代相撲の節の後帥中納言長実卿のもとへ・・・
383(序) 画図者五色之章相宣万物之形無遁・・・
384 南殿の賢聖障子は寛平の御時始めて描かれけるなり・・・
385 仁和寺の御室といふは寛平法皇の御在所なり・・・
386 花山法皇書写上人の徳を尊び給ふあまり絵師を召し具して・・・
387 弘高地獄変の屏風を書きけるに・・・
388 帥の大臣に屏風を売る人ありけり・・・
389 小野宮の大臣衝立障子に松を描かせんとて常則を召しければ・・・
390 為成一日が中に宇治殿の扉の絵を書きたりけるを・・・
391 成光閑院の障子に鶏を描きたりけるをまことの鶏見て蹴けるとなん・・・
392 能通絵師良親に屏風二百帖に絵を描かせたりけり・・・
393 永承五年四月二十六日麗景殿の女御に絵合ありけり・・・
394 玄象の撥面の絵は消えて久しくなりにたれば知れる人なし・・・
395 鳥羽僧正は近き世には並びなき絵書きなり・・・
396 同じ僧正のもとに絵描く侍法師ありけり・・・
397 後白河院の御時年中行事を絵に描かれて・・・
398 同じ御時絵難房といふ者候ひけり・・・
399 伊予入道は幼くより絵をよく書き侍りけり・・・
400 東大寺供養の時鎌倉右大将上洛ありけるに法皇より宝蔵の御絵どもを・・・
401 後鳥羽院御幸の供奉人どもまことに選ばせ給ひて・・・
402 順徳院の御位の時新しき御琵琶のありけるをいかなる名をか付くべきとて・・・
403 後堀河院御位すべらせ給ひて内大臣の冷泉富小路の亭にわたらせ給ひけるに・・・
404 同じ御時似絵を御好みありけるに・・・
405 絵師大輔法眼賢慶御の弟子になにがしとかやいふ法師ありけり・・・
406 一条前摂政殿左大臣におはしましける時居すゑ奉らんとて・・・
407(序) 蹴鞠之逸遊者前庭之壮観也・・・
408 後二条殿三月のころ白河の斎院へ参り給ひて御鞠会ありけるに・・・
409 知足院殿若くおはしましける時・・・
410 侍従大納言成通卿の鞠は凡夫のしわざにはあらざりけり・・・
411 宇治の左府法成寺に参籠せさせ給ひたりける時・・・
412 安元御賀の時三位頼輔賀茂神主家平が家に行き向ひて・・・
413 治承三年三月五日御方違のために院の御所七条殿に行幸ありて・・・
414 後鳥羽院は御鞠無双の御ことなりけり・・・
415 順徳院御位の時高陽院殿に行幸なりて御逗留の日御鞠ありけり・・・
416 四条院御位の時仁治のころ仁寿殿の東向の御壺に賀茂神主久継に仰せて・・・
417(序) 天武天皇十四年天皇大安殿に御し王卿等を喚びて博奕せしむ・・・
418 小野宮は昔惟喬親王の双六の質に取り給へる所なり・・・
419 延喜四年九月二十四日右少弁清貫寛蓮法師を召して囲碁を打たせられけり・・・
420 同じ御時基勢法師御所にて囲碁をつかうまつりて銀の笙をうち賜はりてけり・・・
421 承平七年正月十一日右大臣家の饗に中務卿宮おはしましたりけるに・・・
422 久安元年の列見式日に行なはれけるに・・・
423 花山院の右の大臣の時侍ども七半といふことを好みて・・・
424 後鳥羽院の御時伊予国をふてらの島といふ所に天竺の冠者といふ者ありけり・・・
425 鎌倉修理大夫時房朝臣の前にて双六の勝負ありけり・・・
426 建長五年十二月二十九日法深房のもとに刑部房といふ僧あり・・・
427(序) 盗賊者刑獄之法・・・
428 元興寺といふ琵琶はさうなき名物なり・・・
429 博雅三位の家に盗人入りたりけり・・・
430 また篳篥師用光南海道に発向の時海賊にあひたりけり・・・
431 南都にある人五部の大乗経を書きて春日の宝前にて供養せんと思ひて澄憲法印を・・・
432 いづれのころのことにか西の京なる者夜深く朱雀門の前を過ぎけるに・・・
433 隆房大納言検非違使別当の時白川に強盗入りにけり・・・
434 中納言兼光卿建久二年十二月二十八日に検非違使別当になりて・・・
435 正上座といふ弓の上手若かりける時三河国より熊野へ渡りけるに・・・
436 後鳥羽院の御時交野八郎といふ強盗の張本ありけり・・・
437 承久のころ内裏へ盗人を追ひ入れたりけるを所衆行実・・・
438 木幡にて四月のころ盗人を捕へて問ひいましめて置きたりけるに・・・
439 ある所に強盗入りたりけるに弓取りに法師を立てたりけるが・・・
440 ある所に偸盗入りたりけり・・・
441 大殿小殿とて聞こえある強盗の棟梁ありけり・・・
442 鞍馬詣の者の夕暮に市原野を過ぎけるに盗人に行き合ひて・・・
443 澄恵僧都いまだ童にて侍りける時介錯しける僧髪けづらんとて・・・
444 この僧都の坊の隣なりける家の畠に蕎麦を植ゑて侍りけるを・・・
445 花山院の粟田口殿の山の蕨をあまりに人の盗みければ・・・
446 横川の恵心僧都の妹安養の尼のもとに強盗に入りにけり・・・
447(序) 流俗之習触境随事皆成佳祝・・・
448 延長二年十二月二十二日内裏の御賀を中宮奉らせ給ひけるに・・・
449 承平四年三月二十六日天子常寧殿にて皇大后の五十算の賀せさせ給ひけり・・・
450 康和四年二月九日、御賀の試楽ありけり・・・
451 仁平二年正月七日、法皇五十にみたせ給ふ御賀ありける・・・
452 建長元年十二月十八日日吉の禰宜成茂宿禰七十の賀をしけり・・・
453 延長八年九月二十九日延喜聖主崩御・・・
454 空也上人道を過ぎ給ひけるにある家の門に年七歳ばかりなる小児泣きて・・・
455 法興院入道殿かくれさせ給ひて御葬送の夜山作所にて万人騒動のことありけり・・・
456 後中書王雑仕を最愛せさせ給ひて土御門右大臣をばまうけ給ひけるなり・・・
457 敦光朝臣江帥の旧宅を過ぐとて・・・
458 二条右衛門佐重隆没後に冥官になりにけり・・・
459 仁平元年九月七日の夜菅登宣が夢に故式部権少輔成佐法師が形にて痩せ・・・
460 鳥羽院かくれさせ給ひて御葬送の夜西行法師・・・
461 二条院かくれさせ給ひて中納言実国卿白河宮に参りて見参らせけるに・・・
462 高倉院の女房世をいとひてさまかへたる人侍りけり・・・
463 冷泉内大臣文治四年二月二十日歳二十二にて失せ給ひてのち・・・
464 中宮権大夫家房卿建久七年七月二十七日に失せ給ひて後の春・・・
465 西行法師当時より釈迦如来御入滅の日終りをとらんことを願ひて詠み侍りける・・・
466 後京極殿は詩歌の道に長ぜさせ給ひて寛弘寛治の昔の跡を尋ねて・・・
467 承久の乱れによりて中御門中納言宗行卿関東へ呼び下されけるに・・・
468 後高倉院かくれさせ給ひて四十九日の御導師に聖覚法印参りたりけるに・・・
469 従二位家隆卿は若くより後世の勤めなかりけるが・・・
470 生者必滅のことわり会者定離のならひは高きも下れるも逃るることなければ・・・
471 明義門院寛元元年三月二十九日にかくれさせ給ひにしを・・・
472 花山院の御時中納言義懐は外戚権右中弁惟成は近臣にて・・・
473(序) 周覧之遊其興太多・・・
474 寛治六年十月二十九日殿上の逍遥ありけり・・・
475 白河院深雪の朝雪見の御幸あるべしとて・・・
476 同じ院鳥羽殿におはしましける時昨日より雪降りて・・・
477 保安五年閏二月十二日法皇新院御同車にて白川の花を御覧ぜられけり・・・
478 承元五年閏正月二日の朝目も驚くばかり雪降り積りけるに・・・
479 亭子院の御時昌泰元年九月十一日大井川に行幸ありて・・・
480(序) 宿執者天性之所染着也・・・
481 いづれの年のことにかありけむ高陽院にて競馬ありけるに・・・
482 承保二年八月二十八日同じ院に行幸なりて競馬ありけり・・・
483 平等院にはこのごろも宇治殿住ませ給ふとかや・・・
484 叡山の千手院に広清といふ僧ありけり・・・
485 堂僧済範は深く音楽にふける者なりけり・・・
486 白河院の御時時資を召して御寵童二郎丸に貴徳納蘇利等の秘事を授くべきよし・・・
487 六波羅の別当長慶は院禅が琵琶の弟子なり・・・
488 保延年中より中院右大臣は左大将徳大寺左大臣は右大将にて・・・
489 仁平三年のころより孝博入道重病を受けたりけるに・・・
490 京極大相国常にのたまひけるは・・・
491 知足院殿に小物御前と申す御愛物ありけり・・・
492 大監物藤原守光は侍学生の中には名誉の者にてなむ侍りける・・・
493 藤大納言実国寿永元年に例ならずおはしましけるが清暑堂の御神楽に・・・
494 西行法師出家より前は徳大寺左大臣の家人にて侍りけり・・・
495 山にうへすぎの僧都といふ人ありけり・・・
496 孝道朝臣若かりける時さしてその病といふことなきに・・・
497 法深房生年二十の年より熊野へ詣でてわが道もし父の芸に及ばずは・・・
498 行願寺に全舜法橋といふ者ありけり・・・
499 陵王の荒序は笛にとりて最も秘曲なり大神基政この曲を習ひ伝へて後・・・
500 前中納言定嗣卿和漢の才先祖にも恥ぢざりければ・・・
501(序) 闘諍之起自少及大・・・
502 保延六年夏のころ滝口源備宮道惟則いさかひをして備殺されにけり・・・
503 仁平元年九月七日賀茂の行幸に樋口東洞院にて左大臣の移馬の居飼・・・
504 静賢法印のもとに馬の允なにがしとかやゆゆしく力強くかなけある男ありけり・・・
505 鎌倉の右府の将軍家に正月朔日大名ども参りたりけるに三浦介義村・・・
506 天福元年祇園の十列に院の左将曹秦久清母の服にて出仕せざりけるが・・・
507(序) 興言利口者・・・
508 下野敦季競馬をつかうまつりけるが・・・
509 知足院殿大殿とておはしましける時侍を御勘当ありけるには・・・
510 久安のころ宇治の左府宇治へおはしましけるに有盛朝臣・・・
511 仁平二年三月二十五日八幡の行幸ありけるに蔵人の判官藤原範貞・・・
512 藤中納言家成卿黒き馬を持ちたりけるを下野武正しきりに乞ひけるを・・・
513 法性寺殿天王寺へ参らせ給ひけるに武正御供したりけるが・・・
514 修理大夫行通卿大蔵卿になりたりける時・・・
515 中ごろ六の葦毛といふあがり馬ありけり・・・
516 雨降り風おどろおどろしかりける夜二条中納言実綱卿の家に・・・
517 松殿摂籙の御時春日詣とかやに秦兼国を仮に召されたりけり・・・
518 秦兼任貧しかりけるころただ独り従者を持ちたりけり・・・
519 妙音院入道殿仰せらるるべきことありて・・・
520 近江法眼寛快いまだ凡僧にてありける時・・・
521 粟田口大納言古き大納言にておはしながらいとも出仕などもせで・・・
522 皇太后宮大夫俊成卿最勝光院の花見侍りけるついでに・・・
523 北院の御室あるかた夕暮に御所に人も候はでただ一所御念誦して・・・
524 同じ御室随身中臣近武が袴ぎはを執し思し召しけるに・・・
525 一条の二位の入道のもとに下太友正といふ随身幼くより宮仕へけり・・・
526 随身下野武守が娘を秦頼武むかへけるに・・・
527 坊門院に年ごろ召し使ふ蒔絵師ありけり・・・
528 同じ院の侍の長に兵庫助則定といふ者ありけり・・・
529 松尾の神主頼安がもとにたつみの権守といふ翁ありけり・・・
530 後鳥羽院の御時性親が葦毛といふあがり馬ありけり・・・
531 同じ御時南都の僧六人に風流棚を召されたりけるに・・・
532 治部卿兼定滋野井の泉にて納涼せられけるに・・・
533 増円醍醐寺の桜会見物の時、舞の最中に見物をばせずして・・・
534 進士志定茂といふ侍学生ありけり・・・
535 馬助入道関東へ下向の時もかかること侍りき・・・
536 かの定茂承元二年十月二十八日文殿の作文に参りたりけるに・・・
537 後鳥羽院の御時いづれの所の競馬にか侍りけん下野種武御点に入りたりければ・・・
538 順徳院御位の時ある所の恪勤者寄り合ひて雑談しけるに・・・
539 同じ御時小川滝口定継といふ御気色よき主侍りけり・・・
540 七条院の権大夫は歌人なり・・・
541 この女院の女房どもの中にいとをかしきこと多く侍りけり・・・
542 同じ院に屁ひりの判官代といふ者ありけり・・・
543 持明院になつめ堂といふ堂あり・・・
544 外宮権禰宜度会神主盛広三河国なる女をむかへて妻にしたりけるに・・・
545 いづれのころのことにか山僧あまたともなひて児など具して竹生島へ参りたりけり・・・
546 ある宮腹の女房みそか法師を持ちて夜な夜な局へ入れけり・・・
547 あるなま蔵人の妻のいともの妬みするありけり・・・
548 しきりにたけ高き女とことにたけ低かりける男寝たりけるに・・・
549 近ごろ天王寺よりある中間法師京へ上りける道に・・・
550 ある所に能声をそろへて念仏を申させけり・・・
551 近ごろ一生不犯の尼ありけり・・・
552 南都にまた一生不犯の尼ありけり・・・
553 あるひらあしだ名僧ありけり・・・
554 周防国に曽祢といふ所を知りて下りける人色々しき者にて・・・
555 近ごろ無沙汰の智了房といふ者ありけり・・・
556 坊城三位入道雅隆のもとに正月朔日深草土器持ちて参りたりけるに・・・
557 かの三位入道失せられたりける時大夫阿闍梨順聖といふ僧・・・
558 嵯峨の釈迦堂に人あまた参りて通夜したりけるに・・・
559 孝道入道仁和寺の家にてある人と双六を打ちけるを・・・
560 前大和守時賢が墓所は長谷といふ所にあり・・・
561 縫殿頭信安といふ者ありけり世の中に強盗はやりたりけるころ・・・
562 壬生二品家隆の家にてある人の子を男になすこと侍りけり・・・
563 同じ卿のもとに権寺主円慶といふ僧侍りけり・・・
564 堀河内府入道納言の時功徳遊ありけり・・・
565 橘蔵人大夫有季入道のもとに年ごろの青侍ありけり・・・
566 天福のころある上達部嵯峨の辺に造作せむとて見歩きけるに・・・
567 前隠岐守永親が親しき者に左衛門尉なにがしとかやいふ者ありけり・・・
568 将軍入道殿はじめて上洛の時清水の橋を渡されけるに・・・
569 四条院崩御の時醍醐の大僧正の弟子になにがし房とかやいひける僧・・・
570 寛元の御禊に院の御桟敷の前にて右少弁顕雅供奉人を問ひけるに・・・
571 宝治の日吉の御幸にある上達部供奉ありけるに侍五人具せられたりけり・・・
572 建長元年閑院殿焼失の次の日宮の左衛門なにがしとかやいふ者・・・
573 同じき四年の維摩会の延年に児白拍子の料春日の社の神人季綱を鼓打ちに・・・
574 少将入道善忍といふ人のもとに男の下人ありけり・・・
575 堀河院の御時中宮の御方の御半物に沙金といひて・・・
576 後嵯峨院の御時亀山殿御所のころ高倉宰相茂通卿と栄性法眼とは・・・
577 権漏刻博士季親といふ者ありけり・・・
578 賀縁阿闍梨と聞こえし人何事の意趣かありけむ慈恵僧正を濫行肉食の人たる由・・・
579(序) 怪異の恐れ古今慎しみとす・・・
580 延長八年七月十五日酉の時に大きなる流星東北をさして行きけるが・・・
581 出雲国秋鹿郡の北の海に黒島といふ小島あり・・・
582 同じき四年正月下旬に同じ国の海辺戞を打つ声聞こえけり・・・
583 後朱雀院の代の末に除目行なはれけるに大きなる人赤き組を首にかけて・・・
584 崇徳院御位の時保延六年の秋のころ御夢に白河僧正増智参りたるよし・・・
585 治承二年六月十二日未時坤方の星地に落ちたりけり・・・
586 同じき四年四月二十九日未時ばかりに辻風吹きたりけり・・・
587 清長卿貫首の時殿上人どもあひ伴ひて船岡に向ひて虫を捕りけるに・・・
588(序) 千変万化いまだ始めより極めあらず・・・
589 仁和三年八月十七日亥時ばかりにある者道行く人に告げけるは・・・
590 延長七年四月二十五日の夜宮中に鬼の跡ありけり・・・
591 同じき八年六月二十五日宇多院御随身の近衛右近の陣を過ぎけるに・・・
592 同じき七月五日の夜右近の陣下野長用殷富門より参りて・・・
593 承平元年六月二十八日未刻に衣冠着たる鬼の長一丈余りなるが・・・
594 天慶八年五日夜宣陽建秋両門の間に馬二万ばかり音しけり・・・
595 昔玄象の失せたりけるに公家驚き思し召して秘法を二七日修せられけるに・・・
596 五宮の御室しづかなる夕べただ今御手水召してただ一所おはしましけるに・・・
597 久安四年の夏のころ法勝寺の塔の上に夜ながめける歌・・・
598 二条院の御時五節の卯の日の夜主殿司指燭をさして・・・
599 承安元年七月八日伊豆国奥島の浜に船一艘つきたりけり・・・
600 東大寺の聖人春舜房はもとは上醍醐の人なり・・・
601 主殿頭光遠朝臣法住寺を造りける時子息近江守仲兼毎日奉行して参じけり・・・
602 後鳥羽院の御時八条殿に女院わたらせ給ひけるころ・・・
603 水無瀬山の奥に古き池あり水鳥多くゐたり・・・
604 建保のころ大原の唯蓮房五種行をはじめ行なはれけるに天狗たびたび妨げをなしけり・・・
605 これも建保のころ御湯殿の女官高倉が子に七歳になるあこ法師といふ・・・
606 大納言泰通の五条坊門高倉の亭は父侍従大納言の家にて古き所なり・・・
607 斎藤左衛門尉助康丹後国へ下向したりけるに狩りをして日暮れたりけるに・・・
608 三条の前の右の大臣の白川の亭にいづこよりともなくて飛礫を打ちけること・・・
609 観教法印が嵯峨の山荘に美しき唐猫の・・・
610 仁治三年大嘗会に人多く参り集ひけるに外記の庁のうち東の方なる・・・
611 これも仁治のころ伊勢国書生荘より百姓なりける法師上りて・・・
612(序) 食者人之本也・・・
613 中関白春日の行幸に供奉し給ひたりけるに御車のうちに酒饌をまうけられて・・・
614 寛弘三年三月四日東三条より一条院に行幸ありけり・・・
615 万寿二年正月三日関白以下大后へ参り給ひて盃酌のことありける・・・
616 道命阿闍梨修行し歩きけるに山人の物を食はせたりけるを・・・
617 あやしげなる下衆男の禅林寺僧正に瓜を四つ奉りたりければ・・・
618 長谷の前々大僧正五月五日人々に粽を配りけるに・・・
619 知足院殿中納言の時当院にましまして中納言に箏を習はせ給ひける時・・・
620 左京大夫顕輔卿のもとへある人ことをして送りたりけるに・・・
621 同じ卿のもとに盃酌ありけるに畳和布に菰のこを肴にしたりけるを見て・・・
622 式部大輔敦光朝臣のもとへ奈良なりける僧の飛鳥味噌といふものを・・・
623 法性寺殿元三に皇嘉門院へ参らせ給ひたりけるに・・・
624 鳥羽院御位の時在良朝臣御侍読にて常に参りけるに・・・
625 保延三年九月二十三日仙洞に行幸ありて十番の競馬を御覧ぜられけり・・・
626 同じき六年十月十二日白河の仙洞に行幸の時御前にて盃酌ありけり・・・
627 中院右大臣鳥羽殿へ参られたりけるに・・・
628 仲胤僧都法勝寺御八講に遅く参りたりければ追ひ出だされて・・・
629 観知僧都九条太政大臣のもとへ平茸を贈るとてそへ侍りける・・・
630 俊頼朝臣秋の末つかたに田上といふ所へまかりたりけるに・・・
631 中御門左大臣家へ大外記頼業は常に参じけり・・・
632 文治のころ後徳大寺左大臣右大臣におはしける時徳大寺の亭に作泉を・・・
633 暁行法印人のもとへまかりたりけるに瓜を取り出でたりけるが・・・
634 藤井入道宰相中将にて侍りける時梶井宮に参りけるに盃酌ありけり・・・
635 順徳院の御時新蔵人源邦時分配をしける・・・
636 七月七日麦縄の房中に足るまじきよし申しけるを聞きて詠める・・・
637 季経卿泰覚法印がもとへ瓜をつかはして・・・
638 九条前内大臣家に壬生二位参りて和歌の沙汰ありけるに・・・
639 同じ二品不食の所労のころ蓮の実ばかりを食するよし聞きて・・・
640 醍醐の大僧正実賢餅を焼きて食ひけるに・・・
641 石泉法印祐性鞍馬寺の別当にて枯れ縒り篠を多くまうけたるを・・・
642 聖信房の弟子ども茎立を前にて茹でけるに・・・
643 別当入道北白川に住み侍りけるころ山の蕨(わらび)を折りて・・・
644 三条中納言は人にすぐれたる大食にてぞありける・・・
645 ある人のもとに若き侍ども寄り合ひて大雁を候はんとてしたためける所へ・・・
646(序) 草木者有時以死・・・
647 延喜十三年十月十三日御記云仰侍臣令新菊花各十本分一二番相争勝劣賭以━・・・
648 貞信公棗を愛して参りけり・・・
649 天暦七年十月十八日殿上の侍臣左右を分かちておのおの残菊を奉りけり・・・
650 南殿の桜は村上の御時式部卿重明親王の家の桜匂ひことなりとて・・・
651 康保三年閏八月十五日作物所画所相分かちて殿の西の小庭に前栽を植ゑられけり・・・
652 天禄三年八月二十八日規子内親王野の宮にて御所のおもに薄蘭紫苑・・・
653 宇治殿四条大納言と春秋の花いづれかすぐれたると論ぜさせ給ひけり・・・
654 長元元年十二月二十二日昭陽舎の桜を一本清涼殿東北の庭に移し・・・
655 永承六年五月五日内裏に菖蒲の根合ありけり・・・
656 経信卿大宰帥に任じて下向の時八月十五夜に筑前国筵田駅に着きたりけるに・・・
657 堀河院の御時五月五日江帥菖蒲を奉りたりける状に・・・
658 嘉保二年八月二十八日上皇鳥羽殿にて前栽合ありけり・・・
659 長治二年後の二月二十日あまりのころ内の女房殿上人少々花を見侍りけるに・・・
660 嘉応二年九月上旬京中桜梅桃李花開きて春の天のごとくなりけり・・・
661 五月のころ円位上人熊野へ参りけり・・・
662 承元四年正月のころ内裏にて日給果てて源仲朝以下蔵人町へまかりけるに・・・
663 順徳院の御時十月のころ侍従宰相定家卿大蔵卿為長卿参内して・・・
664 同じ御時内裏にて花合ありけり・・・
665 泰覚法印五月五日人のもとへ菖蒲をつかはすとて詠み侍りける・・・
666 後堀河院御位の時嘉禄二年九月十一日例幣に頭中将宣経朝臣以下・・・
667 二品の綾小路壬生の家に鞠の懸に柳三本ありけり・・・
668 建長元年二月前太政大臣家に行幸ありてしばし内裏にて侍りけるころ・・・
669 ある貴所より仰せを承りて桜をあまた植ゑける折節・・・
670 金光院に人々に当てて桜を植ゑられ侍りしに結び付け侍りし歌・・・
671 松樹を貞木といふことはまさしく人のためにかの木の貞心あるにはあらず・・・
672(序) 禽獣魚虫其彙且千・・・
673 右近少将広継朝臣大宰少弐になりて・・・
674 桓武の御門政の後は衣冠を脱がせおはしまして・・・
675 延喜の野の行幸に御剣の石突を落させ給ひたりければ・・・
676 承平のころ狐数百頭東大寺の大仏を礼拝しけり・・・
677 永延元年五月九日右近の馬場にて競馬五番ありけるに・・・
678 一条院の御時御秘蔵の鷹ありけり・・・
679 御堂殿儀同三司の御車に乗り具し給ひて・・・
680 越後国に乙寺といふ寺に法華経持者の僧住みて朝夕誦しけるに二つの猿来たりて・・・
681 ある男日暮れて後朱雀の大路を通りけるにえもいはぬ美女一人あひたりけり・・・
682 山城国久世郡に人の娘ありけり幼くより観音に仕へけり・・・
683 寛治五年十月六日殿上人所の衆滝口小舎人左右を分かちて小鳥合のことありけり・・・
684 嘉保二年八月十二日殿上の男ども嵯峨野に向ひて虫を捕りて奉るべきよし・・・
685 同じき二年冬のころ石見守宗季唐の鷹をまうけたりける・・・
686 保延のころ宰相中将なりける人の乳母猫を飼ひけり・・・
687 ある貴所にしろねといふ猫を飼はせ給ひける・・・
688 久安のころ毛生ひたる亀を西国の人知足院殿へ参らせたりけり・・・
689 後白河院の御時兵衛尉康忠といふ者候ひけり・・・
690 承安二年五月二日東山の仙洞にて鵯合のことありけり・・・
691 同じき二年祇園会を菅博士行衡三条堀川にて見けるに・・・
692 東大寺の上人春豪房伊勢の海一志の浦にて海人蛤を捕りけるを見給ひて・・・
693 文治のころ伊賀国の住人女子持ちたりけるを同国の三室池の竜に取られにけり・・・
694 摂津国ふきやといふ所に下女ありけり夏昼寝したりけるに・・・
695 渡辺に往年の堂あり・・・
696 ある田舎人京上りして侍りけるが宿にて天道ぼこりしてゐたりけるに・・・
697 文学上人高雄興隆のころ見回りけるに清滝川のかみに大きなる猿両三匹ありけるが・・・
698 近ごろ常陸国多珂の郡に一人の上人ありけり大きなる猿を飼ひけり・・・
699 建保のころ北小路堀川辺の在家に女ありけり・・・
700 承久四年の夏のころ武田太郎信光駿河国浅間のすそにて狩りをしけるに・・・
701 近江国高島郡に平等院領河上荘といふ所に武蔵阿闍梨勝覚といふ僧あり・・・
702 野宮左府一の上の時牛犬鴨唐人烏帽子等を大外記師季に賜びたりけり・・・
703 二条中納言定高卿放生会に参向の時二条宰相雅経卿のもとへ・・・
704 宮内卿家隆卿秘蔵の鵯荻の葉といふを子息の侍従隆祐にあづけて・・・
705 後久我太政大臣家におもながといふ鵯のありけるを・・・
706 二条中納言定高卿斑鳩を家隆卿のもとへ送る・・・
707 後堀河院御位の時所の下人末重丹波国桑原の御厨へ・・・
708 安貞のころ伊予国矢野保のうちに黒島といふ島あり・・・
709 宮内卿業光卿のもとに盃酌のことありけるに炭櫃の辺に螺を多く・・・
710 寛喜三年夏のころ高陽院殿の南の大路に堀あり蝦数千集まりて・・・
711 遠江守朝時朝臣のもとに五代民部丞といふ者ありけり・・・
712 伊勢国別保といふ所へ前刑部少輔忠盛朝臣下りたりけるに・・・
713 陸奥国田村の郷の住人馬允なにがしとかやいふ男鷹を使ひけるが・・・
714 天福のころある殿上人のもとに唐の鴨をあまた飼はれける中に・・・
715 大津馬の雨の降りたる日粟田口の大道を通りけるに・・・
716 足利左馬入道義氏朝臣美作国より猿をまうけたりけり・・・
717 豊前国の住人太郎入道といふ者ありけり男なりける時常に猿を射けり・・・
718 摂津国岐志荘に一丈あまりばかりなる蛇の耳生ひたる時々出現して・・・
719 阿波国に智願上人とて国中に帰依する上人あり・・・
720 白拍子太玉王が家にある女にある僧通ひけるを・・・
跋 この集のおこりは・・・
721 院の御随身右府生秦頼方都鳥をある殿上人に参らせたるを・・・
722 唐土に北叟といふ翁ありけり賢く強き馬をなん持ちたりける・・・
723 楚の襄王晋国を討たむとす・・・
724 衛の懿公と申しける王は心つたなくおはしまして・・・
725 荘子山を過ぎ給ふに木を伐る者あり・・・
726 伶人助元府役懈怠のことによりて左近府の下倉に召し籠めらる・・・
heichu
hosshinju
ichigonhodan
ima
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· 最終更新: 2020/04/18 18:57 by
Satoshi Nakagawa
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