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text:chomonju:s_chomonju682

古今著聞集 魚虫禽獣第三十

682 山城国久世郡に人の娘ありけり幼くより観音に仕へけり・・・

校訂本文

山城国久世郡に人の娘ありけり。幼くより観音に仕へけり。慈悲深くして、ものをあはれぶに、人、蟹を捕りて殺さんとしけるを見て、あはれみて買ひ取りて放ちてけり。

その父、田をすかすとて、田づらに出でたりける時、蛇(くちなは)、蛙(かへる)を飲みてありけるを、うち放たんとすれども、放たざりければ、こころみに、なほざりがてら、「その蛙放て。さらば、わが聟(むこ)に取らん」と言ひかけたりける時、蛇、この主(ぬし)が顔をうち見て、飲みかけたる蛙を吐き出だして、薮の中へ這ひ入りぬ。「げにはよしなきことをも言ひつるものかな。蛇はさるものにてあるに」と悔しく思へどかひなし。さて、家に帰りぬ。

夜にも入りぬれば、「いかが」と案じゐたるに、五位の姿したる男(をのこ)入り来たれり。「今朝の御約束によりて参りたる」よしを言ふ。さればこそ、いよいよあさましく悔しきことかぎりなし。何と言ふべきかたなくて、今両三日を経て来たるべきよしを言ひければ、すなはち帰りぬ。娘、このことを聞きて、おぢわななきて、寝どころなと深くかためて隠れゐたり。

両三日をへて来た。このたびは、もとの蛇の形なり。娘の隠れゐたる所を知りて、そのあたりを這ひめぐりて、尾をもちてその戸を叩きけり。これを聞くに、いよいよ恐しきことせんかたなし。心をいたして観音経1)を読み奉りてゐたり。

かかるほどに、夜半ばかりに至りて、百千の蟹集まり来て、この蛇をさんざんに挟み切りて、蟹は見えず。このこと、信力にこたへて観音加護し給ふゆゑに、蟹、また恩を報じけるなり。

その夜、観音経を読み奉りて、他念なく念じ入りたりけるに、御たけ一尺ばかりなる観音現ぜさせ給ひて、「なんぢ、恐るることなかれ」と仰せられけるとぞ。この娘、七歳より観音経を読み奉りて、十八日ごとに持斎(ぢさい)をなんしける。十二歳よりは、さらに法華経一部を読み奉りてけり。

法力、まことにむなしからず。現当の望み、誰(たれ)か疑ひをなさんや。

翻刻

山城国久世郡に人のむすめありけりおさなくより
観音につかへけり慈悲深くしてものをあはれふに人か
にをとりてころさんとしけるをみてあはれみて買
とりてはなちてけり其父田をすかすとて田つら
にいてたりける時くちなはかへるをのみてありけるを
うちはなたんとすれともはなたさりけれは試になを
さりかてらそのかへるはなてさらはわかむこにとらんといひ/s533l

http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100190287/viewer/533

かけたりける時くちなはこのぬしか顔をうちみてのみかけ
たるかへるをはき出して薮の中へはい入ぬけにはよし
なきことをもいひつる物かなくちなははさる物にてある
にとくやしく思へとかひなしさて家に帰ぬ夜にも入
ぬれはいかかとあんしゐたるに五位のすかたしたるおの
こいりきたれり今朝の御やくそくによりてまいりたる
よしをいふされはこそいよいよあさましく悔しき事
限なし何といふへきかたなくて今両三日をへて
来るへきよしをいひけれは則帰ぬむすめ此ことをき
きてをちわななきてねところなとふかくかためて
隠居たり両三日をへてきたり此たひはもとのくち/s534r
なはのかたちなりむすめのかくれ居たる所をしりて
そのあたりをはいめくりて尾をもちてその戸を
たたきけりこれをきくにいよいよおそろしき事せん
かたなし心をいたして観音経をよみたてまつりて
居たりかかる程に夜半はかりにいたりて百千のかに
あつまりきて此蛇をさんさんにはさみきりてかには
みえすこの事信力にこたへて観音加護し給ふ故に
かに又恩を報しける也その夜観音経をよみたて
まつりて他念なく念し入たりけるに御たけ一尺
はかりなる観音現せさせ給て汝恐るる事なか
れと仰られけるとそ此むすめ七歳より観音経を/s534l

http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100190287/viewer/534

よみたてまつりて十八日ことに持斎をなんしける
十二歳よりはさらに法華経一部をよみたてまつりてけり
法力誠に空からす現当ののそみたれかうたかひ
をなさんや/s535r

http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100190287/viewer/535

1)
『法華経』普門品
text/chomonju/s_chomonju682.txt · 最終更新: 2021/01/16 13:14 by Satoshi Nakagawa