古今著聞集 釈教第二
57 西行法師大峰を通らんと思ふ志深かりけれども・・・
校訂本文
西行法師、大峰を通らんと思ふ志深かりけれども、入道の身にては常ならぬことなれば、思ひ煩ひて過ぎ侍りけるに、宗南坊僧都行宗、そのことを聞きて、「何か苦しからん。結縁のためには、さのみこそあれ」と言ひければ、悦びて思ひ立ちけり。「かやうに候ふ非人の、山伏の礼法正しうして通り候はんことは、すべてかなふべからず。ただ何事をも免じ給ふべきならば、御供つかまつらん」と言ひければ、宗南房、「そのことはみな存知し侍り。人によるべきことなり。疑ひあるべからず」と言ひければ、悦びて、すでに具して入りけり。
宗南坊、さしもよく約束しつる旨(むね)をみな背きて、礼法を厳しくして、責めさいなみて、人よりもことに痛めければ、西行、涙を流して、「われは、もとより名聞を好まず、利養を思はず。ただ結縁のためにとこそ思ひつることを、かかる憍慢(けうまん)の職にて侍りけるを知らで、身を苦しめ心をくだくことこそ悔しけれ」とて、さめざめと泣きけるを、宗南坊聞きて、西行を呼びて言ひけるは、「上人、道心堅固にして、難行苦行し給ふことは、世もつて知れり。人もつて帰せり。そのやんごとなきにこそ、この峰をば許し奉れ。先達の命にしたがひて、身を苦しめて木をこり、水を汲み、あるいは勘発(かんほつ)の言葉を聞き、あるいは杖木(ぢやうぼく)を蒙る、これすなはち地獄の苦をつぐのふなり。日食少しきにして飢ゑ忍びがたきは、餓鬼の悲しみを報ふなり。また重き荷をかけて、さかしき嶺を越え、深き谷を分くるは、畜生の報をい果たすなり。かくひねもすに夜もすがら身をしぼりて、暁懺法(せんぽふ)を読みて、罪障を消除するは、すでに三悪道の苦患を果たして、早く無垢無悩の宝土に移る心なり。上人、出離生死の思ひありといへども、この心をわきまへずして、みだりがはしく名聞利養の職なりと言へること、はなはだ愚かなり」と恥かしめければ、西行、掌(たなごころ)を合はせて、随喜の涙を流しけり。「まことに愚痴にして、この心を知らざりけり」とて、過(とが)を悔いて退きぬ。
その後は、ことにおきてすくよかに、かひがひしくぞ振舞ひける。もとより身はしたたかなれば、人よりもことにぞ仕へける。この言葉を帰伏して、また後にも通りたりけるとぞ。大峰二度の行者なり。
翻刻
西行法師大峯をとをらんと思ふ志ふかかりけれとも入道の 身にてはつねならぬ事なれは思煩て過侍けるに宗南坊 僧都行宗其事を聞て何かくるしからん結縁のためには さのみこそあれといひけれは悦て思立けりかやうに候非人 の山臥の礼法たたしうしてとをり候はん事はすへて叶 へからすたた何事をもめんし給ふへきならは御ともつかま つらんといひけれは宗南房其事はみな存知し 侍り人によるへき事也疑あるへからすといひけれは悦て すてにくして入けり宗南坊さしもよく約束しつる旨 をみなそむきて礼法をきひしくしてせめさいなみて 人よりもことにいためけれは西行涙を流して我は/s54r
本より名聞をこのます利養を思はす只結縁の為 にとこそ思つる事をかかる憍慢の職にて侍けるをしら て身をくるしめ心をくたく事こそ悔しけれとてさめさめと なきけるを宗南坊ききて西行をよひていひけるは上人 道心堅固にして難行苦行し給事は世以しれり人以帰 せり其やんことなきにこそ此峯をはゆるしたてま つれ先達の命に随て身をくるしめて木をこり水を くみ或は勘発の詞をきき或は杖木を蒙るこれ則 地獄の苦をつくのふ也日食すこしきにしてうへ忍ひか たきは餓鬼のかなしみをむくふ也又おもき荷をかけ てさかしき嶺をこえ深き谷をわくるは畜生の報を/s54l
http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100190287/viewer/54
はたす也かくひねむすに夜もすから身をしほりて暁 懺法をよみて罪障を消除するは已に三悪道の苦 患をはたして早無垢無悩の宝土にうつる心也上人 出離生死の思ありといへとも此心をわきまへすして みたりかはしく名聞利養の職也といへる事甚愚也と 恥しめけれは西行掌を合て随喜の涙をなかしけり誠に 愚痴にして此心をしらさりけりとてとかを悔てしりそ きぬ其後はことにをきてすくよかにかひかひしくそ振 舞けるもとより身はしたたかなれは人よりもことにそつ かへける此詞を帰伏して又後にもとをりたりけるとそ 大峯二度の行者也/s55r