古今著聞集 釈教第二
40 智証大師御起文云・・・
校訂本文
智証大師1)御起文云、
予、依山王御語、渡於大唐国、受持仏法還本朝。海中老翁、現於予舟而偁、「我新羅国明神2)也。和尚受持仏法、至于慈尊出世、為護持来向也。」者。如是説之後、其形既隠。
予、着岸申公家。即遣官使、所持仏像法門被運納於大政官。于時海中老翁亦来云、「此日本国在一勝地。我先到彼地、早以点定。申於公家建立一伽藍、安置興隆仏法。我為護法神、鎮加持矣。所謂仏法是護持王法。若仏法滅者、王法将滅矣。」
予、出登本山3)千光院、従千光院到山王院、受山王語。「宜早法門運此所」者、明神偁、「此地者末代必有喧事歟。其奈何者、各受北長下也。其内此山可盛事今二百歳哉。我見勝地、末世衆生可為依所。興隆仏法、護持王法、到彼地可相定。」者、明神・山王・別当・西塔・予、到近江国滋賀郡園城寺、案内於住僧等。
爰僧等申之、「不知案内」者、一人之老比丘、名謂教待、出来云、「教年百六十二也。此寺建 立之後、経百八十餘年也。有建立檀越子孫。」。去即教待4)呼彼氏人。姓名大友都堵牟麿。出来云5)、「都堵牟麿、生年百四十七也。此寺先祖大友与多6)、奉為天武天皇所建立也。此地先祖大友太政大臣7)之家地也。堺其四至被宛給(大略)。教待大徳年来云桹8)、『可領此寺之人渡唐也。遅還来之由常語。而今日已相待人来也。可出会」』者、今以寺家奉付属。此寺領地四至内、専無他人領地。而時代漸移、人心諂曲、請国判称私領地。然而氏人無力弁定。早触国可被糺返」者、付属之後山王9)還給。
明神住寺北野、無量眷属囲遶、他人之所不知見。知明神10)住給、野垂挙之人引率百千眷属来向。以飲食奉饗明神之処、老比丘教待到於彼明神之在所、逓以喜悦。即比丘挙人形隠不見。于時問明神偁、「此比丘挙人忽不見。是何人耶。」。明神答之、「老比丘是弥勒如来11)。為護持仏法住給此寺耶。挙人是三尾明神。為訪我来也。」者。
予、還到寺、教待之有様問、都堵牟麿云12)、「専不知此老比丘案内。年来此比丘不魚不飲食。不酒不湯飲。常到寺領海辺之江、取魚鼈為斎食之菜。而謁和尚忽隠之。悲哉々々」。不惜音哀泣。今大衆共見住房、年来干置魚類、皆是蓮華茎根葉也。於是知不例人之由。「今教待已隠。我院早可被興隆者也。」者、問之、「此寺名謂御井寺、其情云何。」。氏人答云、「天智13)・天武14)・持統15)、此三代之天皇各生給之時、最初之時御湯料水、汲於此地内井奉浴之由、俗詞語来。件井水、依経三皇御用、号御井。」者、予、問此縁起、漸見地形、宛如大唐青龍寺。奉受付属畢。別当・西塔共還本山。
別当共参内裏奏申由。勅急造唐坊、仏像法門運移此寺。予、改御井寺成三井寺。其由何者、件井水三皇用給之上16)、此寺為伝法灌頂之庭、可汲井花水之事、令継弥勒三会暁。故成三井寺云々。
書き下し文
智証大師の御起文に云はく、
予、山王御語に依りて、大唐国に渡り、仏法を受持し本朝に還る。海中より老翁、予の舟に現じて偁(い)はく、「我れは新羅の国の明神なり。和尚の仏法を受持し、慈尊の出世に至るまで、護持せんが為に来向するなり。」者(てへ)り。かくのごとく説きて後、其の形既に隠る。
予、着岸して公家に申す。即ち官使を遣はして、所持の仏像・法門を大政官に運び納めらる。時に海中老翁もまた来たりて云はく、「この日本国に一つの勝地在り。我れ先に彼の地に到りて、早く以て点定せん。公家に申して一伽藍を建立し、安置して仏法を興隆せよ。我れ護法神と為りて、鎮(つね)に加持せん。所謂(いわゆる)仏法はこれ王法を護持す。若し仏法滅せば、王法まさに滅せんとす。」
予、出でて本山千光院に登り、千光院より山王院に到り、山王の語を受く。「宜しく早く法門をこの所に運ぶべし」者り。明神偁はく、「この地は末代必ず喧(かまびす)しき事あらんか。それ何(いか)んとなれば、各(おのおの)北を受けて下に長ければなり。その内にこの山盛(さか)んなるべきこと今二百歳かな。我れ勝地を見るに、末世の衆生依る所たるべし。仏法を興隆し、王法を護持すること、彼の地に到りて相定むべし。」者ば、明神・山王・別当・西塔・予、近江国滋賀郡の園城寺に到り、住僧等に案内す。
ここに僧等これを申す、「案内を知らず」者れば、一人の老比丘、名を教待と謂ふ、出で来たりて云はく、「教が年百六十二なり。この寺建立の後、百八十余年を経たるなり。建立せる檀越の子孫有り。」と。去りて即ち教待彼の氏人を呼ぶ。姓名は大友都堵牟麿(おほとものつとむまろ)なり。出来云はく、「都堵牟麿、生年百四十七なり。この寺先祖大友与多、天武天皇所の奉為(おんため)に建立する所なり。この地先祖大友太政大臣の家地なり。その四至を堺し宛て給はる(大略)。教待大徳年ごろ云ふやう17)、『この寺を領すべき人渡唐せるなり。遅く還り来たる由常に語る。而るに今日すでに相待てる人来たれるなり。出で会ふべし」』者れば、今寺家を以て付属(ふしよく)し奉る。この寺領地四至の内、専ら他人の領地無し。而るに時代漸(やうや)く移りて、人心諂曲(てんごく)し、国判を請ひて私領地と称す。然れども氏人弁定するに力無し。早く国に触れ糺し返さるべし」者れば、付属の後、山王還り給ふ。
明神寺の北野に住す。無量の眷属囲遶し、他人の知見せざる所なり。明神住し給ふを知りて、野に垂挙の人百千の眷属を引率して来たり向ふ。飲食を以て明神を饗(もてな)し奉の処、老比丘教待彼の明神の在所に到りて、逓(たが)ひに以て喜悦す。即ち比丘・挙人の形隠れて見えず。時に明神に問ひて偁(い)はく、「この比丘・挙人忽(たちま)ちにえず。これ何人なりや。」。明神これに答ふるに、「老比丘はこれ弥勒如来なり。仏法を護持せんが為にこの寺に住し給ふか。挙人はこれ三尾明神なり。為我を訪(と)はん為に来たれるなり」者り。
予、寺に還り到りて、教待の有様を問ふに、都堵牟麿云はく、「専らこの老比丘の案内を知らず。年来(としごろ)この比丘魚にあらざれば飲食せず。酒にあらざれば湯飲せず。常に寺領の海辺の江に到りて、魚鼈(ぎよべつ)を取りて斎食の菜と為す。而して和尚に謁して忽に隠る。悲しき哉、悲しき哉」。音を惜しまず哀泣す。今大衆と共に住房を見るに、年来干し置ける魚類、皆これ蓮華の茎・根・葉なり。ここに於て例ならざる人の由を知る。「今教待すでに隠る。我が院早く興隆せらるべき者なり。」者ば、これを問ふに、「この寺名を御井寺(みいでら)と謂ふ、その情(こころ)は云何(いかん)。」。氏人答へて云はく、「天智・天武・持統、この三代の天皇各(おのおの)生れ給ひし時、最初の時の御湯料の水は、この地内の井を汲みて浴し奉るの由、俗の詞(ことば)語り来たり。件の井水、三皇の御用を経るに依りて、御井と号す。」者れば、予、この縁起を問ひ、漸く地形を見るに、宛(あたか)も大唐の青龍寺の如し。付属を受け奉り畢(をは)んぬ。別当・西塔と共に本山に還る。
別当と共に内裏に参り由を奏し申す。勅して唐坊を急造し、仏像・法門をこの寺に運び移す。予、御井寺を改めて三井寺と成す。その由何(いか)んとなれば、件の井水三皇の用ゐ給ふ上、この寺伝法灌頂の庭と為りて、井花水を汲むべき事、弥勒三会の暁を継がしむ。故に三井寺と成す云々。
翻刻
智証大師御起文云予依山王御語渡於大唐国受 持仏法還本朝海中老翁現於予舟而偁我新羅 国明神也和尚受持仏法至于慈尊出世為護持 来向也者如是説之後其形既隠予着岸申 公家即遣官使所持仏像法門被運納於大政官 于時海中老翁亦来云此日本国在一勝地我先到 彼地早以点定申於公家建立一伽藍安置興隆仏法 我為護法神鎮加持矣所謂仏法是護持王法/s37l
http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100190287/viewer/37
若仏法滅者王法将滅矣予出登木山千光院従 千光院到山王院受山王語宜早法門運此所者 明神偁此地者末代必有喧事歟其奈何者各受 北長下也其内此山可盛事今二百歳哉我見勝地 末世衆生可為依所興隆仏法護持王法到彼可地 相定者明神山王別当西塔予到近江国滋賀郡 園城寺案内於住僧等爰僧等申之不知案内者 一人之老比丘名謂教待出来云教年百六十二也此寺建 立之後経百八十餘年也有建立檀越子孫去即教持呼 彼氏人姓名大友都堵牟麿出来之都堵牟麿生年 百四十七也此寺先祖大友与多奉為天武天皇所建立也/s38r
此地先祖大友太政大臣之家地也堺其四至被宛給(大略) 教待大徳年来云桹可領此寺之人渡唐也遅還来 之由常語而今日已相待人来也可出会者今以寺家 奉付属此寺領地四至内専無他人領地而時代漸移人 心諂曲請国判称私領地然而氏人无力弁定早触国 可被糺返者付属之後山還給明神住寺北野无量 眷属囲遶他人之所不知見知明住給野垂挙之人 引率百千眷属来向以飲食奉饗明神之処老 比丘教待到於彼明神之在所遞以喜悦即比丘挙 人形隠不見于時問明神偁此比丘挙人忽不見是何 人耶明神答之老比丘是弥勒如来為護持仏法/s38l
http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100190287/viewer/38
住給此寺耶挙人是三尾明神為訪我来也者予還 到寺教待之有様問都堵牟麿之専不知此老比丘案 内年来此比丘不魚不飲食不酒不湯飲常到寺領海 辺之江取魚鼈為斎食之菜而謁和尚忽隠之悲哉々々 不惜音哀泣今大衆共見住房年来干置魚類皆是 蓮華茎根葉也於是知不例人之由今教待已隠我院 早可被興隆者也者問之此寺名謂御井寺其情云何 氏人答云天智天武持統此三代之天皇各生給之時最 初之時御湯䉼水汲於此地内井奉浴之由俗詞語来 件井水依経三皇御用号御井者予問此縁起漸見 地形宛如大唐青龍寺奉受付属畢別当西塔共還/s39r
本山別当共参内裏奏申由勅急造唐坊仏像法 門運移此寺予改御井寺成三井寺其由何者件 井水三皇用給之此寺為伝法灌頂之庭可汲井花 水之事令継弥勒三会暁故成三井寺云々/s36l