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text:chomonju:s_chomonju037

古今著聞集 釈教第二

37 行基もろもろの病人を助けんがために有馬の温泉に向ひ給ふに・・・

校訂本文

行基、もろもろの病人を助けんがために、有馬の温泉に向ひ給ふに、武庫山の中に一人の病者臥したり。上人、あはれみを垂れて問ひ給ふやう、「なんぢ、何によりてか、この山の中に臥したる」。病者答へていはく、「病身を助けんがために温泉へ向ひ侍る。筋力絶え尽きて、前途(せんど)達しがたくして、山中にとどまれる間、粮食(りやうしよく)与ふる者なくして、やうやく日数を送れり。願はくは上人、あはれみを垂れて、身命を助け給へ」と申す。

上人、この言葉を聞きて、いよいよ悲嘆の心深し。すなはち、わが食を与へて、付き添ひて養ひ給ふに、病者いはく、「われ、あざやかなる魚肉にあでは食することを得ず」と。これによりて、長洲の浜に至りて、生(なま)しき魚を求めて、これを勧め給ふに、「同じくは味はひを調(ととの)へて与へ給へ」と申せば、上人、みづから塩梅(あんばい)を和して、その魚味を試みて、味はひ調ふる時、勧め給ふに、病者これを服す。

かくて日を送る。またいはく、「わが病、温泉の効験を頼むといへども、たちまちに癒へんことかたし。苦痛しばらくも忍びがたし。譬へをとるにものなし。上人の慈悲にあらでは、誰かわれを助けん。願はくは1)上人、わが痛む所の肌(はだへ)をねぶり給へ。しからば、おのづから苦痛助かりなん」と言ふ。その体焼爛(せうらん)して、その香はなはだ臭くして、少しも耐へこらふべくもなし。しかれども、慈悲いたりて深きがゆゑに、あひ忍びて、病者の言ふにしたがひて、その肌をねぶり給ふに、舌の跡、紫磨金色(しまこんじき)となりぬ。

その仁(ひと)を見れば、また薬師如来の御身なり。その時、仏告げてのたまはく、「われはこれ温泉の行者なり。上人の慈悲を試みんがために、仮に病者の身に現じつるなり」とて、忽然として隠れ給ひぬ。

その時、上人、願を発(おこ)して、「堂舎を建立して、薬師如来を安置せん」と願し、「その跡を崇めんと思ふ。必勝地を示せ」とて、東に向ひて木葉を投げ給ふ2)。すなはち、その木葉の落つる所をその所と定めて、いまの昆陽寺(こやじ)は建て給へるなり。畿内に四十九院を建て給へる、その一つなり。

天平勝宝元年二月に、御年八十にて終りを取り給ふとて詠み給ひける歌、

  法(のり)の月久しくもがなと思へども夜や更けぬらん隠しつ

御弟子どもの悲嘆しけるを聞き給ひて、

  かりそめの宿借るわれを今さらにものな思ひそ仏とをなれ

翻刻

行基諸の病人をたすけんかために有馬の温泉に
むかひ給に武庫山の中に一人の病者臥たり上人
あはれみを垂て問給ふやう汝何によりてか此山の中に
ふしたる病者答曰病身を助んかために温泉へ向ひ
侍る筋力絶尽て前途達しかたくして山中にととま
れる間粮食あたふるものなくして漸日数を送れり
願は上人あはれみを垂て身命をたすけ給へと申上人
この詞をききて弥悲歎の心深し即我食をあたへて
つきそひて養給に病者云われあさやかなる魚肉に
あらては食する事をえすとこれによりて長洲浜に
至てなましき魚を求て是をすすめ給ふにおなし/s35r

くはあちはひを調てあたへ給へと申せは上人みつ
から塩梅を和して其魚味を試てあちはひ調る
時すすめ給ふに病者これを服すかくて日を送る又云
我病温泉の効験をたのむといへとも忽にいへんこと
かたし苦痛しはらくも忍かたし譬をとるに物なし
上人の慈悲にあらてはたれか我をたすけん願そ上人
わかいたむ所のはたへをねふり給へしからはおのつから
苦痛たすかりなんといふ其体焼爛してその香はな
はたくさくしてすこしもたへこらふへくもなししかれとも
慈悲いたりて深きか故にあひ忍て病者のいふに随
て其はたへをねふり給に舌の跡紫磨金色と成ぬ/s35l

http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100190287/viewer/35

其仁をみれは又薬師如来の御身なりその時仏告ての
給はく我はこれ温泉行者也上人の慈悲をこころ
みんかために仮に病者の身に現しつるなりとて
忽然としてかくれ給ぬ其時上人願を発して堂舎を
建立して薬師如来を安置せんと願し其跡を崇と
思ふ必勝地をしめせとて東に向て木葉を投給(正良/の木)
即其木葉の落所を其所と定ていまの昆陽寺は
建給へるなり畿内に四十九院を立給へる其一也天
平勝宝元年二月に御とし八十にておはりをとり給ふ
とてよみ給けるうた
  法の月久しくもかなと思へとも夜や深ぬらん光かくしつ/s36r
御弟子ともの悲歎しけるをきき給て
  かりそめの宿かる我を今更に物な思そ仏とをなれ/s36l

http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100190287/viewer/36

1)
「願はくは」は底本「願そ」。諸本により訂正。
2)
底本「正良の木」と注。
text/chomonju/s_chomonju037.txt · 最終更新: 2020/01/06 19:16 by Satoshi Nakagawa