中巻 序
校訂本文
釈迦1)の御法(みのり)、正覚(しやうがく)なり給ひし日より、涅槃に入り給ひし夜にいたるまで、説き給へる諸(もろもろ)のこと、一つもまことならぬはなし。はじめ華厳(けごん)を説きて菩薩に悟らしめ給ふ。日の出でてまづ高き峰を照らすがごとし。次に阿含(あごん)を述べて、沙門に知らしめ給ふに、日の高くしてやうやく深き谷を照らすがごとし。また所々にして方等(はうどう)くさぐさの経をあらはすに、仏は一音(ひとこゑ)に説き給へれども、衆生(しゆじやう)は品々(しなじな)にしたがひて悟りを得ること、雨は一つの味にてそそけども、草木は種々(くさぐさ)に随(したが)ひてうるほひを得るがごとし。十六会(じふろくゑ)の中に般若の空しき悟りを教へ、四十余年の後に法華(ほつけ)の妙(たへ)なる道をひらき給へり。
鷲の峰2)に思ひあらはれ、鶴の林3)に声絶えにしよりこのかた、迦葉(かせふ)が詞(ことば)を鐘の音に伝へ、阿難(あなん)身を鎰(かぎ)の穴より入れり。千人の羅漢を撰びとどめて、すべて一代の聖教を注(しる)しおけり。それより後、二十四人の聖受け伝へ、十六大国の王広め守りき。
釈尊、隠れ給へれども、教法はとどまりたれば、薬をとどめて薬師の別れぬるに同じ。誰(たれ)か煩悩の病を除かざらむ。玉をかけて友の去りぬるに同じ。つひに無名(むみやう)の酔(ゑ)ひをさますべし。
そもそも天竺は仏のあらはれて説き給ひし境、震旦(しんたん)は法の伝はりて広まれる国なり。この二所(ふたところ)を聞くに、仏の法やうやうあはてにたるべし。
唐土(もろこし)の貞観三年に、玄奘三蔵4)の天竺に行きめぐりし時に、鶏足山(けいそくせん)の古き室(むろ)には竹しげりて人もかよはず。孤独苑(こどくをん)の昔の庭には室は失せて、僧も住まざりけり。摩竭陀国(まかだこく)に行きて菩薩樹院を見れば、昔の国王の造れる観音の像あり。みな地(つち)の底に入りて、肩より上(かみ)わづかに出でたり。「仏法失せ終らむに、この像入り果て給ふべし」といひけり。
また、唐土(もろこし)にも聖(ひじり)多く満ち、栄へたれども、しばしは乱れたる時あり。後周の代に大きに魔の風あふぎて、まさに法の燈を消たむとせしかば5)、藹禅師(あいぜんじ)6)の世を悲しみ身を恨み命を捨て、遠法師(をんほふし)7)の道を惜しみしかば、王に向ひて罪を論じき。開皇のころ8)かさねて広まり、大業の代9)にまた衰へしかば、鬼泣き神歎き、山鳴り海沸きぬ。会昌天子10)、多く経論を焼きしかば、宮のうちの公卿は頭(かうべ)をたれて歎き、門(かど)の前の官人は涙を流して悲しびき。
かの貞観よりこのかた三百六十余年を隔てつれば11)、天竺を思ひやるに、観音の像入りや果て給ひぬらむ。会昌より後一百四十余年に及びぬれば12)、大唐をおしはかるに法文の跡少なくやなりぬらむ。
あなたうと。仏法、東に流れて盛りに、わが国にとどまり跡を垂れたる聖、昔多くあらはれ、道を広め給ふ君、今にあひつぎ給へり。十方界(じつはふかひ)に会ひがたく、無量劫(むりやうこふ)にも聞きがたき大乗経典を、ここにして多く聞き見ること、これおぼろけの縁にあらず。法(のり)の音(こゑ)は毒の鼓(つづみ)のごとし。一度聞くに無明の敵(あた)を殺す。経の名は薬の樹に同じ。わづかに語るに輪廻の病を除く。
かの雪山童子(せつせんどうじ)は半偈(はんげ)を求めて命を捨て13)、最勝仙人(さいしようせんにん)は一偈を願ひて身を破り、常啼(じやうたい)は東に乞ひ、善財(ぜんざい)14)は南に求め、薬王(やくわう)15)は臂を焼き、普明(ふみやう)16)は頭(かしら)を捨てむとしき。
たとひ一日に三度(みたび)恒沙(ごうしや)の数の身を捨つとも、なほ仏法の一句の恩をだにも報ずることあたはじ。昔、床の下に立ちて経を聞きし犬は、舎衛国(しやゑこく)に生まれて聖となり、林の中にして法(のり)を聞きし鳥は忉利天(たうりてん)に生まれて楽しみを受けき。鳥獣すらかくのごとし。いはんや人の信をもて聞かむをや。
悲しきかな。滅度(めつど)の後、僧法のころにいたりて、唐土(もろこし)には漢の明帝の時にはじめて天竺より伝はり、わが国には欽明天皇の世に、遅く百済国(はくさいこく)より来たれり。われ今掌(たなごころ)17)を合はせて、法の妙なることをあらはす。
翻刻
三宝絵中 釈迦ノ御ノリ正覚成給シ日ヨリ涅槃ニ入給シ夜ニイタル マテ説給ヘル諸ノ事一モマコトナラヌハナシハシメ花厳ヲ説 テ菩薩ニサトラシメ給日ノ出テ先ツ高峰ヲ照カコトシ 次ニ阿含ヲノヘテ沙門ニシラシメ給ニ日ノタカクシテ漸ク深キ/n2-5l・e2-2l
https://dl.ndl.go.jp/pid/1145963/1/5
谷ヲテラスカコトシ又所々ニシテ方等クサクサノ経ヲアラハスニ 仏ハ一音ニ説給ヘレトモ衆生ハシナシナニシタカヒテサトリヲ ウル事雨ハ一ノ味ニテソソケトモ草木ハ種々ニ随テウル ホヒヲウルカコトシ十六会ノ中ニ般若ノ空キサトリヲオシヘ 四十余年ノ後ニ法花ノ妙ナルミチヲヒラキ給ヘリ鷲ノミネ ニヲモヒアラハレ鶴ノ林ニ声タエニシヨリコノカタ迦葉カ 詞ヲ鐘ノ音ニツタヘ阿難身ヲ鎰ノ穴ヨリイレリ千人ノ 羅漢ヲ撰トトメテスヘテ一代ノ聖教ヲ注ヲケリソレヨリ/n2-6r・e2-3r
ノチ廿四人ノヒシリウケツタヘ十六大国ノ王ヒロメマモリキ 尺尊隠給ヘレトモ教法ハトトマリタレハ薬ヲトトメテ薬師ノ ワカレヌルニ同シタレカ煩悩ノ病ヲ除カサラム玉ヲカケテ友ノ サリヌルニ同シツヒニ無名ノ酔ヲサマスヘシ抑天竺ハ仏乃 アラハレテ説給シ境震旦ハ法ノ伝テヒロマレル国也コノ二所 ヲ聞ニ仏ノ法漸アハテニタルヘシモロコシ乃貞観三年ニ玄蔵 ノ天竺ニユキメクリシ時ニ鶏足山ノフルキ室ニハ竹シケリテ 人モカヨハス孤独苑ノ昔ノ庭ニハ室ハウセテ僧モスマサリケリ/n2-6l・e2-3l
https://dl.ndl.go.jp/pid/1145963/1/6
摩竭陀国ニユキテ菩薩樹院ヲミレハ昔ノ国王ノツクレル観音 ノ像アリ皆ツチノソコニ入テ肩ヨリカミワツカニ出タリ仏法 ウセヲハラムニコノ像入ハテ給ヘシトイヒケリ又モロコシニモ聖 オホク満サカヘタレトモシハシハミタレタル時アリ後周ノ代ニ大ニ 魔ノ風アフキテマサニ法ノ燈ヲケタムトセシカハ藹(アイ)禅師乃 ヨヲ悲ミ身ヲ恨ミ命ヲステ遠法師ノ道ヲヲシミシカハ王 ニムカヒテツミヲ論シキ開皇ノ比カサネテヒロマリ大業 ノヨニ又ヲトロヘシカハ鬼泣キ神ナケキ山ナリ海ワキ/n2-7r・e2-4r
ヌ会昌天子オホク経論ヲヤキシカハ宮ノウチノ公卿ハ頭ヲ タレテナケキ門ノ前ノ官人ハ涙ヲ流シテカナシヒキ彼貞観 ヨリコノカタ三百六十余年ヲヘタテツレハ天竺ヲ思ヤルニ観音ノ 像入ヤハテ給ヌラム会昌ヨリノチ一百四十余年ニ及ヌレハ大 唐ヲオシハカルニ法文ノ跡スクナクヤ成ヌラムアナタウト仏法 東ニナカレテサカリニ我国ニトトマリアトヲタレタル聖昔オホク アラハレ道ヲヒロメ給君今ニアヒツキ給ヘリ十方界ニアヒカタ ク無量劫ニモ聞カタキ大乗経典ヲココニシテオホク聞見/n2-7l・e2-4l
https://dl.ndl.go.jp/pid/1145963/1/7
事是オホロケノ縁ニアラス法ノ音ハ毒ノ鼓ノコトシ一度 聞ニ無明ノアタヲコロス経ノ名ハ薬ノ樹ニ同シ僅ニカタルニ 輪廻ノ病ヲ除ク彼雪山童子ハ半偈ヲモトメテ命ヲステ 最勝仙人ハ一偈ヲネカヒテ身ヲヤフリ常啼ハ東ニコヒ善 財ハ南ニモトメ薬王ハ臂ヲヤキ普明ハ頭ヲステム トシキ縦(タトヒ)一日ニ三度恒沙ノカス乃身ヲスツトモ猶仏法ノ 一句ノ恩ヲタニモ報スル事アタハシ昔床ノシタニタチテ経ヲ キキシ犬ハ舎衛国ニ生テ聖トナリ林ノ中ニシテ法ヲ聞シ/n2-8r・e2-5r
鳥ハ忉利天ニ生テ楽ヲウケキ鳥獣スラカクノコトシ況ヤ 人ノ信ヲモテキカムヲヤ悲哉滅度之後僧法ノ比ニイタリテ モロコシニハ漢明帝ノ時ニハシメテ天竺ヨリツタハリ我国ニハ欽 明天皇ノ世ニ遅ク百済国ヨリキタレリ我今タナ心ヲアハセテ 法ノ妙ナル事ヲアラハス/n2-8l・e2-5l