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上巻 10 雪山童子
校訂本文
昔、一人の人ありて、雪山1)に住みき。名付けて雪山童子(せつせんどうじ)と云ふ。薬を食ひ菓子(このみ)を取りて、心を閑かにし、道を行ふ。帝釈2)、これを見て思はく、「魚の子は多かれど、魚と成るは少なし。菴羅(あむら)3)の花は滋(しげ)けれども、菓子(このみ)を結ぶは希(まれ)なり。人もまたかくのごとし。心を発(おこ)す物は多かれど、仏に成るは希(まれ)らなり。すべて諸(もろもろ)の菩提心は、浄土に経(ふ)れど動きやすく、苦しびを恐れて励みがたきこと、水の内の月、波に随ひて動きやすく、鎧(よろひ)を着たる軍(いくさ)の戦ふに臨(のぞ)みて、恐れて逃ぐるがごとし。この人の心をも行きてこころみて知るべし4)」と念(おも)ふ。
その時に、仏、世にいまさざりしかば、雪山童子、あまねく大乗経を求むるにあたはず。「諸行無常(しょよぎやうむじやう)。是生滅法(ぜしやうめつほふ)」と云ふ音(こゑ)、ほのかに聞こゆ。驚きて見れば人もなし。羅刹(らせつ)近く立てり。その形、猛(たけ)く恐ろしくして、頭の髪は焔(ほのほ)のごとく、口歯は剣のごとし。目を瞋(いか)からかして、あまねく四方を見廻らす。
これを見れども、驚かずして、ひとへに聞きつることをのみ悦(よろこ)び奇(あやし)ぶこと、喩(たと)へば、年経て母を別れたる小牛の、ほのかに母の音(こゑ)を聞くならむがごとし。「このことは誰(た)れか云ひつるぞ。必す残りの辞(ことば)はあるべし」と云ひて、あまねく尋ね求むるに、人もなければ、「もし、この鬼の云ひつるか」と疑へども、また「世に有らじ5)」と念(おも)ふ。その身を見れば、罪の報いの形なり。この偈(げ)を聞けば、仏の説きたまへる言葉なり6)。「かかる鬼の口より、かかる偈を云ひ出づべからず」と思へども、また異人(ことひと)なければ、「もし、こののことは、なんぢが云ひつるか」と問へば、羅刹答ふ、「われにものな云ひそ。物食はずして多くの日を経(へ)ぬれば、飢ゑ疲れて物のおもほえず。すでにたはことに云へるならむ。わがうつし心に知れることにもあらじ」と答ふ。
人また云ふ、「われ半偈を聞きつるより、半ばなる月を見るかごとく、半ばなる玉を得たるがごとし。なほ、なんぢが云ひつるならむ7)。願はくは残りの辞(ことば)を説き畢(は)てよ」と云へば、鬼の云はく、「なんぢは自来(もとより)悟りあれば、聞かずとも恨みあらじ。われは今飢ゑに迫まられにたれば、もの云ふべき力もなし。すべて多し。ものな云ひそ」と云ふ。人、なほ問ふ、「物食ひては説きてむか」と問へば、鬼答ふ、「なんぢ更に問ふべからず。聞かば必ず恐れをなしてむ。聞くとも、また求むべきき物にもあらず」と云ふ。人迫(せ)めて問ふ、「なほそのの物とだに云へ。こころみにも求めみむ」と云へば、鬼の云ふ、「われはただ人の温かなる肉(しし)を啗(く)らひ、人の温かなる血を呑まむと、空を飛びてあまねく求め、世に満ちて人多かれど、各(おのおの)の守りあれば、心に任せて殺しがたし」と云ふ。
その時に、雪山童子の思はく、「われ、今日身を捨てて、この偈(げ)を聞き畢(は)てむ」と思ひて、「なんぢが食ひ物ここにあり。ほかに求むべからず。わが身いまだ死なねば、その肉(しし)温かならむ。わが身いまだ寒(ひ)えねば、その血温かならむ。早く残の偈を説け。すなはちこの身を与へむ」と云ふ。鬼笑ひて云はく、「誰かなんぢがことをまこととは憑(たの)むべき。聞きて逃げていなば、誰れを証人としてか糺(ただ)さむ8)さむとする」と云ふ。雪山童子の云ふ、「この身は後につひに死なむとす。一つの功徳をも得まじ。今日、法(のり)のために、汚なく穢(けが)らはしき身を捨て、後に仏とならむは、浄(きよ)く妙(たへ)なる身を得べし。土の器(うつはもの)を捨てて、宝の器に替ふるがごとくにせむとするなり。梵王・帝釈・四大天王・十方の諸仏菩薩を皆証人とせむ。われ、さらに偽らじ」と云へば、鬼、「もし、云ふがごとくにまこととならば説かむ」と云ふ。
雪山童子、大きに悦びて、身に着たる鹿の皮の衣(ころも)を脱ぎて、法の座に敷きて、手を叉(あざ)へ、地に跪(ひざまづ)きて、「ただし願くは、わがために残りの偈を説き給へ」と云ひつつ、心を致(いた)して深く敬ふ。鬼の云ふ、「『生滅々已(しやうめつめつい)、寂滅為楽(じやくめつゐらく)』となむ云ふ」と。
この時に、これを聞き悦び貴ぶること限りなし。「後の世に忘れじ」とて、数度(あまたたび)云ひ返して、深く9)その心に染む。「悦ぶ所は、この仏説き給へる10)空しき教えを悟りぬることを。歎く所は、われ一人のみ聞きて、人の為に伝へず成りぬることを」と思ひて、石の上、壁の上、道の辺(ほとり)の諸(もろもろ)の木ごとにこの偈を書き付く。「願はくは、後に来たらむ人、必ずこの文を見よ」と云ひて、すなはち高き木に上りて、羅刹(らせつ)の前に落つ。いまだ地に至らぬほどに、羅刹、にはかに帝釈の形に成りて、その身を受け取りつ。
平らかなる所に居(す)ゑて、敬び拝みて云ふ、「われ、暫(しばら)く如来の偈(げ)を借りて、こころみに菩薩の心を悩ましつ。願はくは、この罪を免して、後に必ず渡し済(すく)へ」と云ふ。天人来たりて、「善哉(ぜんざい)善哉。まことにこれ菩薩」と唱ふ。半偈のために身を投げしに、十二劫(じふにごふ)の生死(しやうじ)の罪を超えにき。
昔の雪山童子は今の釈迦如来なり。涅槃経11)に見えたり。
翻刻
昔独ノ人有テ雪山ニ住ミキ名付テ雪山童子ト云フ 薬ヲ食ヒ菓ノ子ヲ取テ心ヲ閑カニシ道ヲ行フ帝尺是ヲ見テ 思ハク魚ノ子ハ多カレト魚ト成ルハ少シ菴羅ノ花ハ滋ケレトモ菓 子ヲ結フハ希ナリ人モ又如是シ心ヲ発ス物ハ多カレト仏ニ 成ルハ希ラナリ惣テ諸ノ菩提心ハ浄土ニ経レト動コキ安ク/n1-29l・e1-26l
https://dl.ndl.go.jp/pid/1145957/1/29
苦ルシヒヲ恐テ励ミ難キ事水ノ内ノ月キ波ニ随テ動キ安ク 鎧ヒヲ着タル軍サノ戦カフニ臨ミテ恐テ逃クルカ如シ此ノ人ノ 心ヲモ行キテ心ロ見テ知ル等シト念フ其ノ時ニ仏世ニ不伊坐 サリシカハ雪山童子普ク大乗経ヲ求ムルニ不能ス諸行無常 是生滅法ト云フ音ヱ風ノカニ聞コユ驚キテ見レハ人モ無シ 羅刹近ク立テリ其ノ形猛ケク恐ソロシクシテ頭ノ髪ハ焔ホノ如ク 口歯ハ剱ノ如シ目ヲ瞋カラカシテ普ク四方ヲ見廻ラス此レヲ 見レトモ不驚カスシテ偏ヘニ聞キツル事ヲノミ悦ヒ奇フ事喩ヘハ 年シ経テ母ヲ別レタル小コ牛ノ風ノカニ母ノ音ヲ聞ナラムカ/n1-30r・e1-27r
如シ此ノ事ハ誰レカ云ツルソ必ス残ノ辞ハ有ル可ト云テ普 ク尋ネ求ルニ人モ無ケレハ若シ此鬼ノ云ツルカト疑ヘトモ未多 世ニ有ラ□ト念フ其ノ身ヲ見レハ罪ノ報ノ形ナリ此ノ偈ヲ 聞ハ仏ノ説ヽヽヽハナリ加々留鬼ニノ口ヨリ加々留偈ヲ云ヒ不 可出ト思ヘトモ又異ト人ト無ケレハ若此ノ事ハ汝カ云ツルカト 問ハ羅刹答フ我ニ物ナ云ソ物不食シテ多ノ日ヲ経ヌレハ 飢ヱ疲レテ物ノ於毛保衣須既ニ太者事ニ云ヘルナラム我カ 遷シ心ニ知レル事ニモ有ラシト答フ人又云フ我レ半偈ヲ 聞キツルヨリ半ハナル月ヲ見ルカ如ク半ナル玉ヲ得タルカ如シ猶汝カ/n1-30l・e1-27l
https://dl.ndl.go.jp/pid/1145957/1/30
云ツルナ□ム願ハ残ノ辞ヲ説キ畢テヨト云ヘハ鬼ノ云ク汝ハ自来(モトヨリ)リ 悟リ有レハ不聞トモ恨ミ不有シ吾レハ今飢ニ被迫レニタレハ物 可云キ力モ無シ惣テ多シ物ナ云ヒソト云フ人猶問フ物食 ヒテハ説キテムカト問ヘハ鬼答フ汝更不可問聞カハ必ス恐レヲ 成シテム聞クトモ又可求キ物ニモ不有スト云フ人迫テ問フ 猶其ノ物トタニ云ヘ心見ニモ求見ムト云ヘハ鬼ノ云フ吾レハ 只人ノ温カナル肉ヲ啗ヒ人ノ温カナル血ヲ呑ムト空ヲ飛テ 普ク求メ世ニ満テ人多カレト各ノ守リ有レハ心ニ任セテ/n1-31r・e1-28r
難殺シト云フ其ノ時ニ雪山童子ノ思ハク我レ今日フ身ヲ 捨テ此ノ偈ヲ聞キ畢テムト思テ汝カ食ヒ物爰ニ有リ外カニ 不可求ス我カ身未死ネハ其ノ肉シ温ナラム我身未寒ネハ 其ノ血温カナラム早ク残ノ偈ヲ説ケ即此ノ身ヲ与ヘムト云フ 鬼ニ咲ヒテ云ク誰カ汝カ事ヲ実トハ可憑キ聞テ逃テ いなは誰レヲ証人トシテカ札(糺カ本ママ)サムトスルト云フ雪山童子ノ云フ此ノ 身ハ後ニ遂ヒニ死ナムトス一ツノ功徳ヲモ得マシ今日フ法ノ為ニ きたなく穢カラハシキ身ヲ捨テ後ニ仏ト成ムハ浄ク妙ナル 身ヲ可得シ土ノ器ヲ捨テテ宝ノ器のニ替フルカ如クニセムトスル也/n1-31l・e1-28l
https://dl.ndl.go.jp/pid/1145957/1/31
梵王帝尺四大天王十方ノ諸仏菩薩ヲ皆証人ト為ム我レ 更ニ不偽ラシト云ヘハ鬼若シ云フカ如クニ実トナラハ説カムト云フ雪山 童子大キニ悦ヒテ身ニ着タル鹿ノ皮ノ衣モヲ脱キテ法ノ 座ニ敷キテ手ヲ叉サヘ地ニ跪マツキテ但シ願クハ我カ為ニ 残ノ偈ヲ説キ給ヘト云ツツ心ヲ致シテ深ク敬マフ鬼ノ云フ 生滅々已寂滅為楽トナム云フト此ノ時ニ是レヲ聞悦ヒ貴フル 事無限シ後ノ世ニ不忘シトテ数タ度ヒ云ヒ返シテ深ノ其ノ 心ニ染ム悦フ所ハ此ノ仏説キ給ヘルモ空シキ教ヲ悟リヌル事ヲ歎ク 所ハ我レ一人ノミ聞キテ人ノ為ニ不伝成リヌル事ヲト思ヒテ/n1-32r・e1-29r
石ノ上ヘ壁ヘノ上ヘ道ノ辺ノ諸ノ木毎ニ此偈ヲ書キ付ク 願ハ後ニ来ラム人必ス此ノ文ヲ見ヨト云ヒテ則高キ木ニ 上テ羅刹ノ前ニ落ツ未タ地ニ不至ヌ程ニ羅刹俄カニ帝尺 ノ形ニ成テ其身ヲ受ケ取リツ平カナル所ニ居ヘテ敬ヒ拝カミテ 云フ我レ暫ク如来ノ偈ヲ借テ心見ニ菩薩ノ心ヲ悩シツ願ハ 此ノ罪ヲ免シテ後ニ必ス渡シ済ヘト云フ天人来テ善哉 々々真ニ是菩薩ト唱フ半偈ノ為ニ身ヲ投シニ十二劫ノ生死 ノ罪ヲ超ニキ昔ノ雪山童子ハ今ノ尺迦如来也炎経ニ 見タリ/n1-32l・e1-29l