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text:sanboe:ka_sanboe1-02

三宝絵詞

上巻 2 持戒波羅蜜(須陀摩王)

校訂本文

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菩薩は世々(せぜ)に持戒波羅蜜(ぢかいはらみつ)を行ふ。その心に念(おも)はく、「もし、戒(い)むことを持たずは、常に悪道に堕つべし。吉(よ)き身に生まれずは、いかでか貴き道をば行はむ」と思ひて、命を軽くし、戒むことを重くすること、髻(もとどり)の中の玉を護るが如く、海の上の船を憑むが如し。

昔、国王ありき。須陀摩(すだま)1)と云ひき。虚言(そらごと)とせぬ戒(いみこと)を持てりき。王、あまたの女と共に、園に入りて遊ばむとして、車に乗りて門を出づるに、一人の婆羅門(ばらもん)来たりて、王に言(まう)さく、「われ貧しく苦し。願はくは物を賜へ」と。王の云はく、「還りて後に賜はむ」と云ひて出でぬ。園に遊ぶほどに、鹿足王(ろくそくわう)、空より飛び来たりて、須陀摩王を取りて去りぬ。鷹の鳥を取るが如し。山中に至りて、初めより取り集めて、頭(かうべ)を取らむとする九十九の王の中に置きつ。

須陀摩王、涙を落すこと雨の如し。鹿足、問ひて云はく、「何に2)よりてか、泣くこと童(わらは)の如くなるぞ」と。答へて云はく、「命を惜しむにはあらず、実(まこと)を失しつることの悲しきなり。われ生れてよりいまだ偽(いつは)りを云はず。今日、宮を出づるに、貧しき人、物を乞ひつるに、『還りて後に与へむ』と云ひつ。図らざりき、心の外に命を失ひて、偽りの罪を成さむとは。これを悲しびて泣くなり」と云ふ。鹿足が云はく、「慇(ねんご)ろに、しか念(おも)はば、七日の暇(いとま)を免さむ」と。王、悦びて帰りぬ。

婆羅門を召して、珎(たから)を賜び、太子に譲りて国を委(ま)かす。また民を集めて珎を施(ほどこ)して、国を出でて去りなむとす。諸(もろもろ)の臣、力を合はせ、国の民、心を一つにして、涙を垂れて共に白(まう)さく、「願はくは、なほ留まりて国を治め、民を息(いこ)へ給へ。鉄(くろがね)の屋を作りて住ましめ奉り、勝(すぐ)れたる兵(つはもの)を儲(まう)けて防せがしめむ。鹿足、空より来たるとも、何の怖(おそ)りかあらむ」と白(まう)す。王の宣はく、さらにしかせじ。戒を破りて空しく生けらむよりは、しかじ、戒を守りて早く死なむには。実語は第一の戒なり。実語(じちご)は天に昇る橋なり。妄語(まうご)は地獄に入る。われ今実(まこと)を守りては、命を捨つとも悔ひあらじ」と云ひて、還り至りぬ。

鹿足、遥かに見て悦び、讃めて云はく、「汝はまことに偽りをせざりけり。人の惜しむ物は命に過ぎたるはなし。汝、既に免かれて去りにき。今、還りてここに来たれり。契りし所を誤たず。まことにこれ賢(さか)しき人なり」と。王の云はく、「実(まこと)ずるを人となす。偽るをば人となさず」と。かくのごとくに、広く十善(じふぜん)の道を讃め説く。鹿足王、聞きて云はく、「今、われ汝が云ふことを聞くに、心改り解(さと)り開けぬ。信心清く起こりぬ。今汝が命を免す。九十九の王をもまた汝に免してむ。おのおの本国に還りね」。この時に、諸(もろもろ)の王、喜び還りて、命を全くし、国を治めき。

命に替ふるまで、虚事(そらごと)せざりしかば、これを持戒波羅蜜を満つるとせり。昔の須陀摩王は今の釈迦如来なり。『智度論3)』に見えたり。

絵有り。

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菩薩ハ世々ニ持戒波羅蜜ヲ行フ其心ニ念ハク若戒ムコトヲ不持スハ/n1-12l・e1-10l

https://dl.ndl.go.jp/pid/1145957/1/12

常ニ悪道ニ可堕シ吉キ身ニ不生スハ争テカ貴キ道ヲハ行ハムト思ヒテ
命ヲ軽シ戒コトヲ重クスルコト髻ノ中ノ玉ヲ護ルカ如ク海ノ上ヘノ船ヲ憑
ムカ如シ昔国王有キ須陀摩ト云キ虚ラ言ト不為ヌ戒トヲ持
テリキ王数タノ女ナト共ニ園ニ入テ遊ハムトシテ車ニ乗テ門ヲ出ルニ一リノ
婆羅門来リテ王ニ言サク我レ貧ク苦シ願ハ物ヲ賜ヘト王ノ云ク
還テ後ニ賜ハムト云テ出ヌ園ニ遊フ程ニ鹿足王空ヨリ飛ヒ来
リテ須陀摩王ヲ取テ去リヌ鷹ノ鳥ヲ取ルカ如シ山中ニ至テ
初ヨリ取リ集メテ頭ヲ取ラムトスル九十九ノ王ノ中ニ置キツ須陀摩王涙/n1-13r
ヲ落スコト雨ノ如シ鹿足問テ云ク何□因リテカ泣コト童ハノ如クナルソト
答ヘテ云ク命ヲ惜ムニハ非ス実トヲ失シツルコトノ悲キナリ我レ生レテ従リ
未マタ偽リヲ不云ス今日フ宮ヲ出ツルニ貧キ人物ヲ乞ヒツルニ還
リテ後ニ与ヘムト云ツ不図リキ心ノ外ニ命ヲ失ヒテ偽リノ罪ヲ
成サムトハ是ヲ悲ヒテ泣ク也ト云フ鹿足カ云ク慇ロニ然カ念ハハ七
日ノ暇ヲ免サムト王悦ヒテ帰リヌ婆羅門ヲ召シテ珎ラヲ賜ヒ太
子ニ譲リテ国ヲ委カス又民ヲ集メテ珎ヲ施コシテ国ヲ出テ去
リナムトス諸ノ臣力ヲ合セ国ノ民ミ心ヲ一ニシテ涙ヲ垂レテ共ニ白サク/n1-13l

※e国宝、この画像なし。

https://dl.ndl.go.jp/pid/1145957/1/13

願ハ猶ホ留テ国ヲ治メ民ヲ息コヘ給ヘ鉄ノ屋ヲ作リテ令住メ
奉勝タル兵モノヲ儲テ防セカ令メム鹿足空ヨリ来ルトモ何ニノ
怖リカ有ラムト白ス王ノ宣給ハク更ニ然カセシ戒ヲ破テ空シク生
ケラムヨリハ不如シ戒ヲ守テ早ヤク死ナムニハ実語ハ第一ノ戒ナリ実語
ハ天ニ昇ル橋ナリ妄語ハ地獄ニ入ル我今実トヲ守リテハ
命ヲ捨ツトモ悔イ有ラシト云テ還リ至リヌ鹿足遥ニ見テ悦ヒ
讃メテ云ク汝ハ実トニ偽リヲ為サリケリ人ノ惜ム物ハ命ニ過タルハ无汝既ニ
免カレテ去ニキ今還テ爰ニ来レリ契シ所ヲ不誤ス実トニ是賢/n1-14r・e1-11r
シキ人ナリト王ノ云ク実ト為ルヲ人ト為ス偽ルヲハ人ト不為スト如
是クニ広ク十善ノ道ヲ讃メ説ク鹿足王聞テ云ク今我汝カ云フ
事ヲ聞クニ心改リ解開ケヌ信心清ク起リヌ今汝カ命ヲ免ルス
九十九ノ王ヲモ又汝ニ免シテム各ノ本国ニ還リネ是時ニ諸ノ王喜
ヒ還テ命ヲ全クシ国ヲ治メキ命ニ替フルマテ虚事不為リシカハ是
ヲ持戒波羅蜜ヲ満ツルト為リ昔ノ須陀摩王ハ今ノ尺迦如来
也智度論ニ見タリ有絵/n1-14l・e1-11l

https://dl.ndl.go.jp/pid/1145957/1/14

1)
須陀須摩王
2)
「何に」は底本「に」を欠損。文脈により補う。
3)
大智度論
text/sanboe/ka_sanboe1-02.txt · 最終更新: 2024/08/06 17:11 by Satoshi Nakagawa