嵯峨天皇
さがてんのう(786〜842)
〔生没〕延暦五年〜承和九年(786〜842)。
第五十二代天皇。桓武天皇の第二皇子。母藤原乙牟漏。大同四年(八〇九)即位、治世十四年。諱は賀美能(神野)。
文人趣味で知られた天皇で、勅撰漢詩集に「凌雲集」「文華秀麗集」がある。
また能書家として有名で、空海、橘逸勢とともに三筆といわれた。天皇の真跡と認められるものに「光定戒牒」がある。 また、近年一度出現しすぐに所在を隠した「哭澄上人詩」を真跡と認める研究者も多い。
「日本霊異記」巻下に、嵯峨天皇は寂仙という僧の生まれ変わりであった。寂仙は、寂仙菩薩と言われるほどの高僧だったが、臨終の日に、「私が死んでから二十八年後、神野という国王が生まれる。それによって我が寂仙が生まれ変わったと知るがよい。」 と予言した。はたして、寂仙の死後、二十八年を経て生まれたのが嵯峨天皇であるという。
「日本霊異記」には、続けて治世中に死刑を廃止したことが伝えられる(「日本霊異記」下巻、「十訓抄」巻十)。また、弘仁九年(八一八)の疫病の流行のときには、自ら般若心経を写経し、空海に供養させたという(「古今著聞集」巻二)。 しかし、何と言っても嵯峨天皇の逸話の多くは、天皇の博識や能書、芸道に関するものである。
嵯峨天皇の博識を伝える説話に有名な小野篁との謎ときの話がある。天皇が「無悪善」と書かれた落書を篁に見せたところ、篁はそれを「さがなくてよからん」と読むことが出来た(「江談抄」巻三、「宇治拾遺物語」四十九話、「十訓抄」巻三、「世継物語」、「東斎随筆」)。そのため篁は落書の犯人として天皇に疑いをかけられたが、天皇の出した「一伏三仰不来待 書暗降雨恋筒寝」という謎を、「月よにはこぬきみまたるかきくもり雨もふらなんこひつつもねん」と見事に読むことによって、その疑いをはらした(「江談抄」巻三、「十訓抄」巻三、「東斎随筆」)。 また、「宇治拾遺物語」、「世継物語」では、天皇の出した謎は「子」の文字を十二書いたもので、それを篁が「ねこのここねこ、ししのここじし」と読んだことになっている。
「撰集抄」巻八には、天皇が行幸のとき小野篁に漢詩を作らせ、その漢詩があまりにみごとだったので、天皇は篁を宰相にしたという逸話がある。 空海、逸勢と共に三筆と称され、書の達人であった天皇は、内裏の東面三門の額を書いたという実績が伝えられる(「古今著聞集」巻七)。天皇の書風には、空海の影響を多分に見ることができるといわれる。仏教にも精通した天皇は、空海に東寺を下賜し護持僧としたが、もともと天皇が空海を寵愛したのは、空海が唐より招来した密教のためではなく、中国留学帰りの空海の書の才能に、文人趣味の天皇が目を付けたためであったらしい。
空海の「性霊集」には天皇が書詩に堪能であったことを絶賛している部分を散見することができる。逆に天皇は空海を書の達人としてほめたという(「愚秘抄」巻本)。
天皇と空海の逸話には次のようなものがある。
あるとき、天皇が自分の持っているたくさんの手本を空海に見せた。そのなかでも特に見事な一つを「これは唐人の筆跡である。書いた人の名前は分からないが、素晴らしい書だ。」と言ったところ、空海は「これは私の書いたものでございます。」と言った。それは空海の筆跡とは違っていたので、天皇は信用しなかったが、空海の言うように軸を外して見ると、軸に隠されていた部分に空海の落款があり、留学先の青龍寺で書いた旨が記してあった。天皇が「何故、今の筆跡と違うのか。」と聞くと、空海は「国によって書き方をかえているのです。唐は大国ですから場所に相応してこのように書きます。日本は小国ですからそれ相応に今のように書いているのです。」と答えた。それ以来、天皇は空海と書を争うことは止めてしまった(「古今著聞集」巻七)。
空海に対する、最澄については「拾遺往生伝」巻上に、天皇が最澄の入滅を悲しんで、六韻の詩(哭澄上人詩)を作り、後勅して寺額を延暦寺と号し、法印大和尚位を贈った話がある。
【侍中翁主挽歌詞】