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text:zotanshu:zotan04-08

雑談集

巻4第8話(31) 恋ゆゑ往生の事・法華往生の事

校訂本文

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中ごろ、朝夕御門に仕ふまつる男(をのこ)ありけり。ある優(いう)なる女を語らひて、年ごと住みけるほどに、心移る方やありけむ、宮仕(みやづかひ)にことよせて、かれがれになりゆくを、「心の外(ほか)の絶えまかな」なむど思ふほどに、つひに通はずなりにければ、女、ことにふれつつ心細く思ひ歎き、年月を送る間に、この男、たよりありて、女の家の前を過ぎけり。

そこなる人見あひて、「ただ今、殿こそ過ぎさせ給へ。さすがに、去りし所とは思ひ出づるなんめり。物の見より見入れ給ひつる」と語る。女、これを聞きて、「『聞くべきことあり。立ち入り給ひなむ』と申せ」と云ふ。「過ぎ給ひぬるものをや。やは返り入り給はむずる」と云ひながら、走りつきて、このよし聞こゆ。

あやしく、「何事にや」と思ひながら、これをさへ聞き過ぐべきならねば、返り入るに、門よりさし入りて見れば、庭は草深く滋(しげ)りてありしにもあらず、荒れたる気色(けしき)を見るより、なにとなく哀れ深くなむありけり。わが身の過(とが)思ひ知られて、いかにぞや、そぞろなるやうに覚ゆるを、女は今さらに心おきたる気色(きしよく)もなし。もとよりかくて居たりける気色にて、脇息(けふそく)1)におしかかりて、法華経を読み奉る。ものの思ひけるもしるく、ものの思ひより痩せたるありさま、いと清げにゐたる形(かたち)、姿(すがた)、髪のこぼれかかれるさまなど、もと見し人とも覚えず、たぐひなく見ゆれば、「何の物の狂はしにて、この人に物思はせつらむ」と日ごろの心苦しさを思ふにも、いとどあはれさ浅からず。心ならぬことのありさまなむど、ねむごろに語らふ。

女房、云はむと思ふ気色ながら、いらへもせねば、「経読み果ててと思ふなんめり」と、いぶせく心もとなく待つほどに、「於此命終(おしみやうじう)、即往安楽世界(そくわうあんらくせかい)、阿弥陀仏」といふ所を繰り返し再三読みて、やがて寝入るがごとくにて、ゐながら息絶えにけり。

この男の心、いかなりけむ。男はなにがしの弁2)とか聞きしかども、名は忘れにけり。

人を恋ひては、あるいは望夫石と名をとどめ3)、もしは、つらさのあまりに悪霊となるためしも聞こゆ。いかにも罪深き習ひにてこそ侍るに、それを往生の縁として思ふさまに終りにけむ。いとめでたかりける心なりけり。

あはれ、これをためしに、この世に物思ふ人の往生を願ふことにて侍らば、いかに心かしこからむとなり。さて男はすなはちわが宿所へも帰らで、元結(もとひ)切り、つひに仏道を修 行して往要を遂げにけり4)

阿含経に、「もし人、若くて楽しみ、老いて貧しきは、先世に若くて善を作り、老いて罪造る。若くて貧しく老いて楽しむは、初め悪を造り老いて善を修するなり」。

人を先世(せんぜ)に敬へば、今の世に人に敬はる。人を先世に毀(そし)る者は、今の世に毀らるなり。云々。

仏、譬喩経を説き給ふに、七日青蓮(しやうれん)の御眼(おんまなこ)より涙を流させ給ふ。阿難(あなん)ゆゑを問ふ。答へて云はく、「道心なき衆生に思ひわづらひたるなり」とのたまふ。

浄名大士(じやうみやうだいじ)5)の病の床に臥ししに、文殊6)行きて問ひ給ふに、「衆生の病(やまひ)を病むなり。もし、衆生の道心を発(おこ)せば、病おこたる。衆生邪見なれば、病いよいよ増なり。衆生の煩悩は仏菩薩の病患なり」。

達磨(だるま)は油を煎じて身に浴み、兜率(とそつ)の僧都7)は生盲(しやうまう)にならむと願ひ、おほかた唐土(たうど・もろこし)・この朝にも、昔より今に至るまで、かやうの人々多し。それはことわりなり。命を朝(あした)の露に譬ふれば、露はなほ時をさだめたり。身を夕べの霜に比ぶるに、霜また夜の明くるほどありがたく、おろかなる世中なれば、かしこく思ひよる人々は、体(すがた)を変へ形(かたち)をやつし給ひしなり。

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  恋故往生ノ事法華往生ノ事
中比アサ夕御門ニ仕フマツルヲノコアリケリ有ルイフナル女ヲ語ヒテ
年来スミケル程ニ心ウツル方ヤ有ケム宮仕ニ事ト寄テカレカレニ
ナリユクヲ心ノ外ノタヘマカナナムト思フホトニ遂ニカヨハスナリニ
ケレハ女事ニフレツツ心細ク思ヒ歎キ年月ヲ送ル間ニ此ノ男コ便リ
有リテ女ノ家ノ前ヲスキケリソコナル人見アヒテ只今殿コソ
スキサセ給ヘサスカニサリシ所トハ思出ツルナンメリ物ノ見ヨリ/2-36r
見入レ給ツルト語ル女此ヲ聞テキクヘキ事アリ立チ入リ給ヒナムト
申セトイフスキ給ヒヌル物ヲヤヤハ返リ入リ給ハムスルト云ナカラ
ハシリツキテ此ノ由シ聞ユアヤシク何事ニヤト思ヒナカラ此ヲサヘ
キキスクヘキナラネハ返リ入ルニ門ヨリ指入テ見レハ庭ハ草フカク
滋リテアリシニモアラスアレタル気色ヲミルヨリナニトナク哀レ
フカクナムアリケリ我身ノ過ガ思ヒシラレテイカニソヤソソロナル
ヤウニ覚ユルヲ女ハ今更ニ心ヲキタル気色モナシ本ヨリカクテ
居タリケル気色ニテ脇足ニヲシカカリテ法華経ヲ読ミ奉ル物ノ
思ケルモシルク物ノ思ヒヨリヤセタルアリサマイトキヨゲニ居タル形
スカタカミノコホレカカレルサマナト本ト見シ人トモ不覚タグヒ
ナクミユレハナニノ物ノ狂ハシニテ此ノ人ニ物思ハセツラムト日来ノ
心苦サヲ思ニモイトトアハレサアサカラス心ナラヌ事ノアリサマナムト/2-36l

https://dl.ndl.go.jp/pid/13384727/1/36

ネムコロニ語フ女房イハムト思フケシキナカライラヱモセネハ経ヨミ
ハテテト思フナンメリトイブセク心モトナクマツ程ニ於此命終即
往安楽世界阿弥陀仏ト云所ヲクリ返シ再三ヨミテヤカテ
ネイルカ如クニテイナカライキタヘニケリ此ノ男ノ心イカナリケム
男ハナニガシノ弁トカキキシカトモ名ハワスレニケリ人ヲコヒテハ或ハ
望夫石ト名ヲトトメ若ハツラサノアマリニ悪霊トナルタメシモキコユ
何ニモツミフカキナラヒニテコソ侍ルニ其レヲ往生ノ縁トシテ思フ
サマニ終ニケムイトメテタカリケル心ナリケリアハレコレヲタメシニ
コノ世ニ物思フ人ノ往生ヲ願フ事ニテ侍ラハイカニ心カシコカラムト
ナリサテ男ハ即我宿所ヘモカヘラテモトヒキリ遂ニ仏道ヲ修
行シテ往要ヲ遂ニケリ  ○阿含経若人若クテ楽シミ老ヒテ貧シキハ先
世ニ若クテ善ヲ作リ老テ罪造ル若クテ貧老テ楽ハ初メ悪ヲ造リ老テ善ヲ修スル也/2-37r
○人ヲ先世ニ敬ヘハ今ノ世ニ人ニ被ル敬ハ人ヲ先世ニ毀ル者ハ今ノ世ニ被ル毀ラ也
云々  ○仏譬喩経ヲ説給フニ七日青蓮ノ御眼ヨリ涙ヲ
流サセ給阿難故ヲ問答云ク道心ナキ衆生ニ思ヒワツラヒタルナリ
トノ給フ浄名大士ノ病ノ床ニ臥シニ文殊行テ問ヒ給フニ衆生ノ病ヲ
ヤムナリ若シ衆生ノ道心ヲ発セハ病ヲコタル衆生邪見ナレハ病
弥増也衆生ノ煩悩ハ仏菩薩ノ病患也  達磨ハ油ヲセムシテ
身ニアミ兜率ノ僧都ハ生盲ニナラムトネカヒ大方唐土此ノ朝ニモ
昔シヨリ今ニ至ルマテカヤウノ人々多シソレハコトハリナリ命ヲアシ
タノ露ニ譬フレハ露ハナヲ時ヲサタメタリ身ヲ夕ベノ霜ニクラフル
ニ霜又夜ノアクル程アリカタクヲロカナル世中ナレハカシコク思ヨル
人々ハ体ヲカヘ形ヲヤツシ給ヒシナリ/2-37l

https://dl.ndl.go.jp/pid/13384727/1/37

1)
底本表記「脇足」
2)
『今昔物語集』31-7によると右少弁藤原師家。『発心集』5標題では藤原伊家。ただし本文では「男とは、なにがしの弁とかや聞きしかど、名は忘れにけり」とある。
4)
以上、『発心集』5参照。
5)
維摩詰
6)
文殊菩薩
7)
覚超
text/zotanshu/zotan04-08.txt · 最終更新: by Satoshi Nakagawa