とはずがたり
巻3 7 そのころ真言の御談議といふこと始まりて・・・
校訂本文
そのころ、真言の御談議といふこと始まりて、人々に御尋ねなどありしついでに、御参りありて1)、四・五日御伺候あることあり。法文の御談議ども果てて、九献ちと参る。御陪膳(ばいぜん)に候ふに、「さても、広く尋ね深く学するにつきては、男女(をとこをんな)のことこそ罪なきことに侍れ。逃れがたからさらむ契りぞ、力なきことなり。されば、昔も例(ためし)多く侍り。浄蔵2)といひし行者は、陸奥国(みちのくに)なる女に契りあることを聞き得て、害せんとせしかども、かなはでそれに落ちにき。染殿后3)は、志賀寺の聖に、『われをいざなへ』とも言ひき。この思ひに耐へずして、青き鬼ともなり、望夫石といふ石4)も恋ゆゑなれる姿なり。もしは、畜類・獣(けだもの)に契るも、みな善業の果たす所なり。人はしすべきにあらず5)。」など仰せらるるも、われ一人聞き咎めらるる心地して、汗も涙も流れ添ふ心地するに、いたくことごとしからぬ式にて、誰もまかり出でぬ。
有明の月も出でなんとし給ふを、「深き夜(よ)の静かなるにこそ、心のどかなる法文をも」など申して、とどめ参らせらるるが、何となくむつかしくて、御前を立ちぬ。その後(のち)の御言の葉は知らで、すべりぬ。
夜中過ぐるほどに召しありて、参りたれば、「ありしあらましごとを、ついで作り出でて、よくこそ言ひ知らせたれ。いかなる父(たらちを)・母(たらちね)の心の闇と言ふとも、これほど心ざしあらじ」とて、まづうち涙ぐみ給へば、何と申しやるべき6)言葉もなきに、まづ先立つ袖の涙ぞ抑へがたく侍りし。いつよりも細やかに語らひ給ひて、「さても、人の契り逃れがたきことなど、かねて申ししは、聞きしぞかし。その後、『さても、思ひかけぬ立ち聞きをして侍りし。さだめて憚り思し召すらむとは思へども、命をかけて誓ひてしことなれば、かたみに隔てあるべきことならず。なべて世に漏れむことは、うたてあるべき御身なり。忍びがたき御思ひ、前業(ぜんごふ)の感ずる所と思へば、つゆいかにと思ひ奉ることなし。過ぎぬる春のころより、ただには侍らず見ゆるにつけて、ありし夢7)のこと、ただのことならず思えて、御契りのほどもゆかしく、見しむば玉の夢をも思ひ合はせむために、弥生になるまで待ち暮らして侍るも、なほざりならず推し量り給へ。かつは、伊勢・石清水・賀茂・春日、国を守る神々の擁護(おうご)に漏れ侍らん。御心の隔てあるべからず。かかればとて、われ、つゆも変る心なし』と申したれば、とばかりものも仰せられで、涙のひまなかりしを払ひ隠しつつ、『この仰せの上は、残りあるべきに侍らず。まことに前業の所感こそ口惜しく侍れ。かくまでの仰せ、今生一世の御恩にあらず。世々生々に忘れ奉るべきにあらず。かかる悪縁にあひける恨み忍びがたく、三年過ぎ行くに、思ひ絶えなんと思ふ念誦(ねんじゆ)・持経の祈念にも、これよりほかのこと侍らで、せめて思ひのあまりに誓ひを起こして、願書(ぐわんしよ)をかの人のもとへ送り遣はしなとせしかども、この心なほ止まずして、また巡り会ふ小車(をぐるま)の、憂しと思はぬ身を恨み侍るに、さやうにしるき節さへ侍るなれば、若宮を一所渡し参らせて、われは深き山にこもりゐて、濃き墨染の袂になりて侍らん。なほなほ年ごろの御心ざしも浅からざりつれども、この一節の嬉しさは、多生(たせん)の喜びにて侍る』とて、泣く泣くこそ立たれぬれ。深く思ひそめぬるさまも、げにあはれに覚えつるぞ」など、御物語あるを聞くにも、「『左右(ひだりみぎ)にも8)』とはかかることをや言はまし」と、涙はまづこぼれつつ。
翻刻
もなしその比真言の御たんきといふ事はしまりて 人々に御たつねなとありしつゐてに御まいりありて 四五日御しこうあることありほうもんの御たんきともはてて 九こんちとまいる御はいせんに候にさてもひろくたつねふかく かくするにつきてはおとこをんなのことこそつみなきことに/s121r k3-16
侍れのかれかたからさらむちきりそちからなきことなりされは むかしもためしおほく侍上さうといひし行者はみち の国なる女にちきりあることをききえてかいせんと せしかともかなはてそれにおちにきそめとののきさきは 志賀寺のひしりに我をいさなへともいひきこのおもひに たえすしてあをき鬼ともなりはうふせきといふ石も こひゆへなれるすかたなりもしはちくるいけたものにちきる もみなせんこうのはたす所なり人はしすへきにあらす なとおほせらるるも我ひとりききとかめらるる心地してあせ もなみたもなかれそふ心地するにいたくことことしからぬしき にてたれもまかり出ぬあり明の月もいてなんとした/s121l k3-17
http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100218515/viewer/121
まふをふかきよのしつかなるにこそ心のとかなるほうもん をもなと申てととめまいらせらるるか何となくむつかしく て御まへをたちぬそののちの御ことの葉はしらてすへ りぬ夜中すくるほとにめしありてまいりたれはあり しあらましことをつゐてつくりいててよくこそいひしら せたれいかなるたらちをたらちねの心のやみといふとも これ程心さしあらしとてまつうちなみたくみ給へは 何と申やるるへき言葉もなきにまつさきたつ袖の 泪そをさへかたく侍しいつよりもこまやかにかたらひ給てさて も人のちきりのかれかたき事なとかねて申しはききしそ かしそののちさてもおもひかけぬたちききをして侍し/s122r k3-18
さためてははかりおほしめすらむとはおもへともいのちをかけ てちかひてし事なれはかたみにへたてあるへきことなら すなへて世にもれむことはうたてあるへき御身なりしのひかた き御おもひせんこうのかんする所とおもへは露いかにとおもひ たてまつることなしすきぬる春の比よりたたには侍らす見ゆる につけてありし夢の事たたのことならすおほえて 御ちきりのほともゆかしく見しむは玉の夢をもおもひ あはせむためにやよひになるまて待くらして侍るもなを さりならすをしはかりたまへかつは伊勢いはし水かも春 日国をまもる神々のをうこにもれ侍らん御心のへたて あるへからすかかれはとて我露もかはる心なしと申たれ/s122l k3-19
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はとはかりものもおほせられてなみたのひまなかりしを はらひかくしつつこのおほせのうへはのこりあるへきに侍らす まことにせんこうのしよかんこそ口おしく侍れかくまての おほせこん生一世の御をんにあらす世々生々にわすれたて まつるへきにあらすかかるあくゑんにあひけるうらみしのひ かたく三年過行におもひたえなんとおもふねんしゆ 持経のきねんにもこれより外のこと侍らてせめて思ひの あまりにちかひをおこしてくわんしよをかの人のもとへをくり つかはしなとせしかともこの心猶やますして又めくりあふ をくるまのうしとおもはぬ身をうらみ侍にさやうにしるき ふしさへ侍なれはわか宮を一所わたしまいらせて我は/s123r k3-20
ふかき山にこもりゐてこきすみそめのたもとに成て 侍らんなをなをとしころの御心さしもあさからさりつれとも この一ふしのうれしさはたせんのよろこひにて侍とて なくなくこそたたれぬれふかくおもひそめぬるさまもけに哀 におほえつるそなと御物かたりあるをきくにも左右にもとは かかることをやいはましとなみたは先こほれつつさてもこと/s123l k3-21