目次
下巻 三月 10 志賀伝法会
校訂本文
志賀伝法会(しがのでんぽふゑ) 三月九月四日始1)
天智天皇2)、寺造らむの御願(ごぐわん)あり。この時に王城は近江の国大津の宮にあり。寺所を祈りて願ひ給へる夜の御夢に、法師来たりて申さく、「乾(いぬゐ)の方にすぐれたる所あり。とく出でて見給へ」と。すなはち、おどろき覚めて、出でて見給ふに、火の光、赤くそびけり。
明くる朝(あした)に使(つかひ)をつかはして尋ねしめ給ふに、帰り来たりて奏す、「火の光りし所に小さき山寺あり。一人の優婆塞(うばそく)ありて、めぐり歩(あり)きて行ふ。問へども答へず。その形すこぶる奇(あや)し。世の人に似ず」と申す。
御門、驚き喜び給ひて、その所に行幸(みゆき)し給ふ。優婆塞出でて、迎へ奉る。御門問ひ給ふに、答へて申す。「古き仙霊窟(せむれいのくつ)、伏蔵地(ふくざうのち)、ささなみ長等山(ながらやま)」と申して、すなはち消え失せぬ。
明くる戊辰(つちのえたつ)の年の正月に、はじめて造らしめ給ふ。土曳きて山を平らぐるに、宝鐸(ほうちやく)を堀り出でたり。また白き石あり。夜光を放つ。御門、いよいよ慎み尊び給て、堂を造り仏をあらはし給ひつ。御門、左の方の大指(おほゆび)3)を切りて、石の箱に入れて、所の土の下に4)埋(うづ)み置き給ふ。これ、天に灯(ともしび)をあらはし給へるなり5)。志賀の縁起に見えたり。
参議兼兵部卿正四位下橘朝臣奈良麿6)、天平勝宝7)八年三月五日、はじめて伝法会(でんぽふゑ)をこの寺に行ふ。その式に云はく、「弟子つてに聞く、『崇福寺(すうふくじ)は寺尊く僧多かれど、学べる所少なし』と。このゆゑに、華厳経をはじめとして、諸(もろもろ)の大小乗経律論疏等(だいせうじやうきやうりつろんそら)を伝へ読ましめむ。その料(れう)には、米一万斤、田二十丁を入れ置きて、永く行はむ」と言へり。それより今に至るまで、橘氏の人々詣でて行はしむ。
智度論(ちどろん)8)に云はく、「仏説き給ふ諸(もろもろ)の施(せ)の中に、法施(ほふせ)第一なり。何をもてのゆゑに。財施(ざいせ)は限りあり。法施は限りなし。財(ざい)は、ただ施する人のみ福(さいはひ)を得(う)。法施は、施する人も受くる人もともに得」と言へり。
あまたの経の中に、「法を伝へて人に読ませ悟らしむるは、際(きは)限りなき功徳なり」と言へり。まさに知るべし、法を重くせむ人は、師の卑しからむことを嫌はざれ。袋の臭きによりて、包める金の尊きを捨つべからず。雪山(せつせん)9)は鬼に従ひて偈(げ)を行ひ、帝釈は狐を敬(いやま)ひて法を受けき。いはんや、さかしき僧の伝へむは、必ず行きて読むべし。
翻刻
三月 志賀伝法会 三月九日四日始 天智天皇(舒明一子母皇極天皇也)寺ツクラムノ御願アリ此時ニ王城ハ近江ノ国大津ノ 宮ニアリ寺所ヲ祈テネカヒ給ヘル夜ノ御夢ニ法師来テ申 サク乾ノ方ニスクレタル所アリトク出テミ給ヘト即ヲトロキサメ テイテテ見給ニ火ノ光アカクソヒケリアクル朝ニ使ヲツカハシテ タツネシメ給ニカヘリ来テ奏ス火ノヒカリシ所ニチヰサキ山寺アリ 一人ノ優婆塞アリテメクリ歩テ行フトヘトモコタヘス其形チ/n3-30l・e3-28l
https://dl.ndl.go.jp/pid/1140087/1/30
スコフルアヤシヨノ人ニニスト申御門ヲトロキ喜給テ其所ニ ミユキシ給フ優婆塞出テムカヘタテマツル御門トヒ給ニコタヘテ 申フル(古)キ仙霊窟(セムレイノクツ)伏蔵地(フクサウノチ)佐々名実長等山(ササナミナカラヤマ)ト申テ即チ キエ失ヌアクル戊(ツチノエ)辰ノ年ノ正月ニハシメテツクラシメ給土ヒキテ 山ヲ平クルニ宝鐸ヲ堀出タリ又白キ石アリ夜光ヲハナツ御 門イヨイヨツツシミタウトヒ給テ堂ヲツクリ仏ヲアラハシ給ツ御門左ノ 方ノ大指(無名指イ)ヲキリテ石ノハコニ入テ所ノ土ノシタニウツミヲキ給コレ 天ニトモシヒヲアラハシ給ヘルナリ志賀ノ縁起ニミヘタリ参議/n3-31r・e3-29r
兼兵部卿正四位下橘朝臣奈良麿天平勝宝(孝謙)八年三月五日ハシ メテ伝法会ヲ此寺ニ行フ其式ニ云弟子ツテニキク崇福寺ハ 寺タウトク僧多カレト学ル所スクナシト此故ニ花厳経ヲハシ メトシテ諸ノ大小乗経律論疏等ヲツタヘヨマシメム其料ニハ 米一万斤田廿丁ヲ入ヲキテナカク行ハムトイヘリソレヨリ今ニ イタルマテ橘氏ノ人々マウテテ行ハシム(令)智度論ニ云ク仏トキ給 諸ノ施ノ中ニ法施第一也ナニヲモテノユヘニ財施ハ限アリ法施 ハカキリナシ財ハタタ施スル人ノミ福ヲウ法施ハ施スル人モウクル/n3-31l・e3-29l
https://dl.ndl.go.jp/pid/1140087/1/31
人モトモニウトイヘリアマタノ経ノ中ニ法ヲツタヘテ人ニヨマセサト ラシムルハキハ限ナキ功徳ナリトイヘリマサニシルヘシ法ヲヲモクセム 人ハ師ノイヤシカラム事ヲキラハサレ袋ノクサキニヨリテツツメル 金ノタウトキヲスツヘカラス雪山ハ鬼ニシタカヒテ偈ヲオコナヒ 帝尺ハキツネヲヰ(ウ)ヤマヒテ法ヲウケキ況ヤサカシキ僧ノツタヘム ハカナラスユキテヨムヘシ/n3-32r・e3-30r