目次
下巻 二月 8 山階寺涅槃会
校訂本文
山階寺涅槃会(やましなでらのねはんゑ)
釈迦如来、「涅槃(ねはん)に入りなむ」と思(おぼ)して、摩迦陀国(まがだこく)より拘尸那城(くしなじやう)におもぶき給ひて、二月十五日に跋提(ばつだい)の河のほとり、沙羅(さら)の林にして、薪尽き火消え給ひにき。仏の生まれ給ひし日よりこの日まで栄えたる栴檀(せんだん)の樹、にはかに枯れぬ。仏の隠れ給ひにし後、はじめて今日ごとに見るに、菩提樹の葉みな落つと言へり。心の無き木だにみな今日を知れりければ、恩を思ふ人、いかでか昔を恋ひざらむ。これによりて、末の世の御弟子の、日を忍びがたくして、昔の今日に金(こがね)の床(とこ)に起き居つつ、仏性常住(ぶつしやうじやうぢう)の理(ことわり)をあらはして、「一切衆生(いつさいしゆじやう)には、みな仏の種(たね)あり。みなまさに仏になるべし」と説き記させ給ひし涅槃経(ねはんきやう)を講じて1)、すなはち理の会(ゑ)を行ひ、仏の恩を報ゆるを涅槃会といふなり。
山階寺(やましなでら)のあまたの会の中に、この会をば、寺の僧力を合はせていそぎ行ふ。その儀式、はじめは少しおろかなりけるを、昔、尾張の国の書生(しよしやう)の、この国の司(つかさ)政(まつりごと)枉(まが)れるを見て、頭を剃りてこの寺に来たりて住む。名をば寿広(じゆくわう)といふ。心清くさかし。和上(わじやう)の名を得たり。音楽の道を知れり。みづから儀式を作り、さらに色衆(しきしゆ)を調(ととの)へて、改めて厳(いつく)しく行へり。
明くる日に、尾張国の熱田(あつた)の大神、小さき童(わらは)に憑きて、泣く泣くのたまはく、「寿広和上、もとはわが国の人なり。尊き会(ゑ)を行ふと聞きて、『古き心あらむ』と頼みて、昨日この国に来たりしを、境(さかひ)の中(うち)に、ことごとくに諸仏の境界(きやうがい)になりて、奈良坂口にはみな梵王(ぼんわう)・帝釈(たいしやく)守りしかば、わが近付き寄ることあたはずして、悲しび思ふことかぎりなし。いかでこの会見奉らむ」と言ふ。
和上あはれみて云はく、「法(のり)のために遥かに来給へりけるを、昨日見給はずなりにけり。神の御ために、ことに心ざして、今日また行はむ。行ひのひまひまに法華経百部を読まむ。明けむ年には、新しく百部を書き置きて、のちのちの年には長くその経を読ましめて、二日の大会(だいゑ)を行はむ」と言ひて、にはかにまた加へ行ふ。それより後絶えず。山階寺のおこりは、維摩会(ゆいまゑ)の次(ついで)2)に記すべし。
この涅槃会は、石山3)にも、寺のいそぎとして行ふ。比叡山4)にも、縁を結びて行ふ所あり。
涅槃経にのたまはく、「もしこの経を一度(ひとたび)も耳に触るれば、よく諸(もろもろ)の罪、無間の重き罪を消つ。よく如来のつねにましまして、うけ給はぬことを知り、あるいは常住(じやうぢう)といふ二つの文を聞くに、すなはち天に生まる。もしは、この経の名を聞くに、悪道に落(らく)せず」とのたまへり。
まさに知るべし、この会(ゑ)を拝み、この経を聞く者、はじめて身の中の仏の種(たね)をあらはすと。家の中の土の金(こがね)を教ふるがごとし。
翻刻
山階寺涅槃会 釈迦如来涅槃ニ入ナムトオホシテ摩迦陀国ヨリ拘尸那城ニ オモフキ給テ二月十五日ニ跋提ノ河ノホトリ沙羅ノ林ニシテ 薪ツキ火キエ玉ヒニキ仏ノ生レ給シ日ヨリ此日マテサカヘタル 栴檀ノ樹俄ニ枯ヌ仏ノカクレ給ニシノチハシメテケフコトニミルニ 菩提樹ノ葉ミナ落トイヘリ心ノナキ木タニ皆今日ヲシレリ ケレハ恩ヲオモフ人イカテカ昔ヲコヒサラム是ニヨリテ末ノ世ノ 御弟子ノ日ヲ忍カタクシテ昔ノ今日ニ金ノ床ニオキヰツツ/n3-26r・e3-24r
仏性常住ノ理リヲアラハシテ一切衆生ニハミナ仏ノタネア リ皆マサニ仏ニナルヘシトトキシルサセ給シ涅槃経ヲカクシ天 スナハチ理ノ会ヲ行ヒ仏ノ恩ヲムクユルヲ涅槃会トイフ也山階 寺ノアマタノ会ノ中ニ此会ヲハ寺ノ僧力ヲ合テイソキ行 フ其儀式ハシメハスコシオロカナリケルヲ昔尾張ノ国ノ書生 ノ此国ノツカサマツリコト枉レルヲミテ頭ヲソリテ此寺ニ来テ スム名ヲハ寿広トイフ心キヨクサカシ和上ノ名ヲエタリ音楽ノ ミチヲシレリミツカラ儀式ヲツクリサラニ色衆ヲトトノヘテ改テ/n3-26l・e3-24l
https://dl.ndl.go.jp/pid/1140087/1/26
イツクシク行ヘリアクル日ニ尾張国ノアツタノ大神小キ童ニツキテ ナクナクノ給ハク寿広和上モトハ我国ノ人也タウトキ会ヲ行フト キキテフルキ心アラムトタノミテ昨日此国ニ来シヲサカヒノ中 ニコトコトクニ諸仏ノ境界ニナリテ奈良坂口ニハミナ梵王帝 尺守シカハワカ近付キヨル事アタハスシテカナシヒヲモフ事 限ナシイカテコノ会ミタテマツラムトイフ和上アハレミテイハク 乃リノタメニハルカニ来タマヘリケルヲ昨日ミタマハスナリニケリ神ノ 御タメニコトニ心サシテ今日又行ハム行ノヒマヒマニ法花経百部/n3-27r・e3-25r
ヲヨマムアケム年ニハアタラシク百部ヲカキヲキ天乃チノチノ年 ニハナカクソノ経ヲヨマシメテ二日ノ大会ヲ行ハムトイヒテニハカニ 又クハヘ行フソレヨリ乃チタヘス山階寺ノヲコリハ維摩会ノ次ニ シルスヘシ此涅槃会ハ石山ニモ寺ノイソキトシテ行フ比叡 山ニモ縁ヲムスヒテ行フ所アリ涅槃経ニ乃玉ハク若コノ経ヲ 一タヒモ耳ニフルレハヨク諸ノツミ無間ノヲモキ罪ヲケツヨク如 来ノツネニマシマシテウケ給ハヌ事ヲシリ或ハ常住トイフ二乃 文ヲキクニ即チ天ニ生ルモシハコノ経ノ名ヲ聞ニ悪道ニ落セ/n3-27l・e3-25l
https://dl.ndl.go.jp/pid/1140087/1/27
ストノ給ヘリマサニ知ヘシ此会ヲオカミ此経ヲキクモノハシメテ 身ノ中ノ仏ノタネヲアラハスト家ノ中ノ土ノ金ヲオシフルカコトシ/n3-28r・e3-26r