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下巻 第32 鶴と狐の事
校訂本文
ある田地に、鶴、餌食(えじき)を求めてゐたりしに、古老の狐かれを見て、「たばからばや」と思ひて、そばに近付きて云はく、「いかに鶴殿、御辺(ごへん)は何事をか尋ね給へる。もし、乏(とも)しく侍らば、わが宅所(たくしよ)へ来たらせよ。珍しきもの与へん」と、いとむつまじく語らひければ、鶴、「得たり、かしこし」と喜びて同心す。
狐、急ぎ走り帰つて、粥(かゆ)のやうなる食物(しよくもつ)を浅き金鉢(かなばち)に入れて、鶴に向かつて云ふやう、「御辺は固きものを嫌ひ給ふなれば、わざと粥をこそ」とてささげければ、鶴、件(くだん)の長き觜(はし)にて食はん食はんとすれど、かなはざれば、狐、これを見て、「御辺は不食(ふしよく)に見えたり。かかる珍物(ちんぶつ)をむなしく捨てんよりは、われに給はれ」とて、みなおのれが取り食らひて、「奇怪(きつくわい)なり」とあざければ、鶴、はなはだ無念に思ひて、「いかさまにも、この返報(へんぽう)をせばや」と思ひて帰りしが、ややほど経て、鶴、件の狐に会ひて云ふやう、「われ、ただ今珍しき食物をまうけたり。来たりて食(しよく)し給へかし」と勧めければ、狐、「すはや、先度(せんど)の返報か」とて、鶴の宅所に至りけり。
その時、鶴、口の細き入れ物に、匂ひよき食ひ物を入れて、狐の前に置き侍りければ、狐、これを見るよりも好ましく思ひて、入れ物の回りをかなたこなたへ巡りけれども、かなはざるを、鶴、「をかしのさまや」と見て申しけるは、「さても御辺は愚かなる人かな。ただ今飯の時分なるに、いかで舞ひ踊られけるぞ。食ひ果たしてこそは舞はんずれ。いで、食ひやうを教へん」とて、件の觜をさしのべて、とくとく食ひ尽し侍れば、狐、面目失なひて立ち去りぬ。
そのごとくに、みだりに人をあなどらば、人、またおのれをあなどるべし。人をねんごろにせば、人、またわれをあはれむものなり。これによつて、いかほども人にはあなづらるるとも、われ、人をあなどることなかれ。たとひ愚かにするとも、へりくだりて従はんにはしかじと見えけるなり。
翻刻
卅二 つると狐の事 ある田地につるえしきをもとめてゐたりしに古老 のきつねかれを見てたはからはやと思ひてそはに 近付て云いかに鶴殿御辺は何事をか尋たまへる 若ともしく侍らはわかたく所へきたらせよめつら しき物あたへんといとむつましくかたらひけれは つるえたりかしこしとよろこひて同心すきつね いそきはしりかへつてかゆのやうなるしよく物を あさきかなはちに入てつるにむかつていふやう/3-113l
https://dl.ndl.go.jp/pid/2532142/1/113
御辺はかたき物をきらひ給ふなれはわさとかゆを こそとてささけけれはつる件のなかきはしにてく はんくはんとすれとかなはされはきつねこれを見て 御辺はふしよくにみえたりかかるちんふつをむ なしくすてんよりは我に給はれとてみなをのれか とりくらいてきつくわい成とあさけれはつるはな はたむねんに思ひていかさまにも此返報をせはや とおもひてかへりしかややほと経てつるくたんの きつねにあひていふやう我只今めつらしきしよく 物をまふけたり来りてしよくし給へかしとすす めけれはきつねすはやせんとの返報かとてつるの/3-114r
たく所にいたりけりそのとき鶴口のほそき入物に にほひよきくいものを入てきつねの前におき侍り けれは狐是を見るよりもこのましく思ひていれ物の まはりをかなたこなたへめくりけれ共かなはさる をつるおかしのさまやとみて申けるはさても御 辺はをろかなる人かな只今めしの時分なるにいか てまひおとられけるそくゐはたしてこそはまはん すれいてくゐやうをおしえんとて件のくちはしを さしのへてとくとくくゐつくし侍れはきつね面 目うしなひて立さりぬ其ことくにみたりに人を あなとらはひと又をのれをあなとるへし人をねん/3-114l
https://dl.ndl.go.jp/pid/2532142/1/114
ころにせは人又われをあはれむものなりこれに よつていかほとも人にはあなつらるるともわれ人 をあなとる事なかれたとひをろかにする共へり くたりてしたかはんにはしかしとみえける也/3-115r