下巻 第29 出家とゑのこの事
校訂本文
ある人、ゑのこ1)一匹なづけ育てこれを愛しけるが、年ごろありて、何とかしたりけん、かのゑのこ、にはかに死することありけり。主(あるじ)、これを歎き悲しみて、心に思ふやう、「かかるいとけなきゑのこの死骸は、山野に捨てんよりは、とてものことに、寺の傍らに埋(うづ)まばや」と思ひて、日暮れにのぞんで、人に忍びてこれを取りつつ、堂のほとりに埋みける。
ややあつて、かの寺の僧、これを伝へ聞きて、「こは何者のしわざぞや。かかる狼藉(らうぜき)、前代未聞ためしなし」と云ひければ、かの主を呼びて、すでにあやしくいましめられ侍りける。主、さらに返答に及ばず、赤面してゐたりしが、のがるべき方なくて、この出家の重欲心(じゆうよくしん)を悟つて申しけるは、「御辺(ごへん)の仰せらるる所、もつとも道理至極なり、しかれども、御存知なきにや侍らん、このゑのこの臨終、さもありがたくいみじき心ざしあり。それをいかにと申すに、『後世をとむらはれんそのために、持ちたる百貫の料足(れうそく)を貴僧に奉るべし』と云ひ置き侍る」とありければ、僧、これを聞いて、思ひのほかに勇む気色(けしき)にて云ふやう、「さても、さても、かかるありがたき心ざしはただごとにあらず。われ、愚かなる者の身として、ゆめゆめこれを知らずといましめ侍るなり。御辺は歎き給ふことなかれ。これほどの心ざしを持ちたらんは、たとひ畜類(ちくるい)なりといふとも、必ず極楽へ生まれんこと、いささかも疑ひ給ふことあらじ。われ、もろともにかの跡(あと)をねんごろにとぶらふべし」とて、このゑのこの心ざしを、「奇特(きどく)なり」とて尊(たつと)まれける。
そのごとく、欲にふける者は、かの出家に異ならず。人あつて引物(いんぶつ)を捧げければ2)、財(たから)に目をくらして、理を非に曲ぐることこれ多し。かるがゆゑに、「欲深ければ、戒を破り、罪を作り、身を亡ぼすものなり」とぞ見えけり。これを思へ。
翻刻
廿九 出家とゑのこの事 ある人ゑのこ一疋なつけそたて是をあひしけるか 年比ありてなにとかしたりけんかのえのこ俄に 死する事ありけり主しこれをなけきかなし みて心に思ふやうかかるいとけなきえのこのし かひは山野にすてんよりはとてもの事に寺のかた はらにうつまはやとおもひて日暮にのそんて人に/3-109r
しのひて是をとりつつたうのほとりにうつみける ややあつてかの寺の僧これをつたへききてこは何 物のしわさそやかかるらうせき前代未聞ためし なしといひけれはかの主しをよひてすてにあや 敷いましめられ侍りける主しさらに返答におよ はすせきめんしてゐたりしかのかるへきかたなく て此出家のちうよくしんをさとつて申けるは御 辺のおほせらるる所もつとも道理至極なり然とも 御存知なきにや侍らん此えのこのりんしうさも有 難くいみしき心さしありそれをいかにと申に後世を とむらはれんそのためにもちたる百貫のりやう/3-109l
https://dl.ndl.go.jp/pid/2532142/1/109
そくを貴僧にたてまつるへしといひおき侍ると ありけれはそうこれをきひておもひの外にいさむ 気色にていふやうさてもさてもかかるありかたき心 さしはたたことにあらす我をろかなるものの身と してゆめゆめ是をしらすといましめ侍るなり御辺 はなけき給ふ事なかれこれほとの心さしをもち たらんはたとひ畜類なりといふとも必こくらくへ 生れん事いささかもうたかひ給ふ事あらし われもろともにかの跡をねんころにとふらふへし とて此ゑのこの心さしをきとくなりとてたつと まれけるそのことくよくにふける物はかの出家に/3-110r
ことならす人あつていんふつをさされけれはたから に目をくらして理を非にまくる事是おほしかるか 故によくふかけれはかいをやふりつみをつくり身 をほろほす物也とそみえけりこれをおもへ/3-110l