下巻 第23 童子と盗人の事
校訂本文
ある井のそばに童子一人ゐたりしが、あなたこなたをながめける間に、盗人(ぬすびと)一人走り来たりて、この童(わらんべ)を見て心に思ふやう、「あなうれし。この者の衣裳を剥ぎ取らばや」と思ひて近付き侍るほどに、盗人の悪念を悟つて、いと悲しき気色(けしき)をあらはして、泣く泣くゐたりしが、盗人これをみて、何事とも知らず、世の常の悲しびにはあらず、いとうしく覚えて、さし寄りて、「いかなることを悲しむ」と云へば、童、云ふやう、「まことには何を隠し申さん。心に憂きことあり。ただ今黄金(こがね)の釣瓶(つるべ)をもつて水を汲まんとするところに、にはかに縄が切れて、井戸に落ち入りぬ。千度(ちたび)尋ね求むれどもせんかたなし。いかにしてか、主人の前にて申すべきや」と云ひければ、盗人、これを聞きて、面(おもて)には哀れに悲しきふりをあらはして、慰めて云はく、「いとやすきことかな。われそこへ入りて引き上ぐべければ、なんぢ、いたく歎くべからず」。童、これを聞きて、嬉しくて涙をのごひて頼みにけり。
その時、盗人、着る物を脱ぎて置き、井戸の中に降りて、ここかしこ見尋ぬるひまに、童、この着る物を取つて、いづちともなく逃げ去りぬ。盗人、やや久しく釣瓶を尋ねけれども、これにあはず。かかるほどに、上に上がりしかば、置きたる着る物も童も失せて見え侍らず。
その時、われとわが身に怒つて、独り言を云ふやう、「まことに道理の上より、これを天道はからひ給ふ。そのゆゑは、人の物を盗まんとする者は、かへつて盗まるるものなり」と云ひて、赤裸(あかはだか)にて帰りにけり。
そのごとく、われ・人も前後始終を正さずして、みだりに人を謀(たば)からんとせざれ。たとひ相手に賤しき者なりとも理を曲げんとせば、その悔いあるべし。何事もいたさぬ前(さき)に、まづ来たるべき損得を考ゆべきこと、もつとも道理にかなふべし。
万治二年版本挿絵
翻刻
廿三 わらんへと盗人の事 ある井のそはに童子一人ゐたりしかあなたこな たをなかめける間にぬす人一人はしり来てこのわ らんへを見て心に思ふやうあなうれしこの者の いしやうをはきとらはやとおもひて近付侍る程に/3-102r
盗人の悪念をさとつていとかなしき気色をあらは してなくなくゐたりしかぬす人是をみて何事共し らすよのつねのかなしひにはあらすいとふ敷覚え てさしよりていかなる事をかなしむといへは わらんへ云やう誠にはなにをかかくし申さん心 にうき事ありたた今黄金のつるへをもつて水を くまんとする所に俄になはかきれて井とに おち入ぬちたひたつねもとむれともせんかたなし いかにしてか主人のまへにて申へきやと云けれは ぬす人是をききておもてにはあはれにかなしき ふりをあらはしてなくさめて云いとやすき事哉/3-102l
https://dl.ndl.go.jp/pid/2532142/1/102
我そこへ入てひきあくへけれは汝いたくなけくへか らすわらんへこれをききてうれしくて涙をのこひ てたのみにけりその時ぬす人きる物をぬきておき ゐとの中におりてここかしこ見たつぬるひまに わらんへこのきる物をとつていつちともなくにけ さりぬ盗人やや久しくつるへを尋ねけれ共これに あはすかかるほとにうへにあかりしかはおきたる きる物もわらんへもうせてみえ侍らすその時われ とわか身にいかつてひとりことをいふやうまこと に道理のうへよりこれを天道はからひ給ふ其故は 人のものをぬすまんとするものはかへつてぬすま/3-103r
るる物なりといひてあかはたかにてかへりにけり そのことく我人も前後始終をたたさすしてみたり に人をたはからんとせされたとひあひてにいやし きものなりともりをまけんとせはそのくゐ有へし なに事もいたさぬさきにまつきたるへきそんとく をかんかゆへき事もつともたうりにかなふへし/3-103l