目次
下巻 第10 狐と狼の事
校訂本文
ある狐、子をまうけけるに、狼(おほかめ)を恐れて、名付け親と定む。狼、承りて、その名を「ばけまつ」と付けたり。狼、申しけるは、「その子をわがそばに置いて学問させよ。恩愛(おんあい)のあまりみだりに悪狂(わるぐる)ひさすな」と云へば、狐、「げにも」と思ひ、狼に預けぬ。
狼、このばけまつを連れて、ある山の岳(たけ)に上がり、わが身はまどろみ臥したり。「獣(けだもの)通らば起こせよ」と云ひ付けたり。
さるによて、豚(ぶた)そのほとりを通るほどに、ばけまつ、狼を起こしてこれを教ゆ。狼、申しけるは、「いさとよ。あの豚は毛もたたこはくして、口を損ふものなり。これをば捕るまじき」と云ふ。また、牛を野飼ひに放すほどに、ばけまつ教へければ、狼、申しけるは、「これもパストル1)・犬などいふもの多し。捕るまじ」と云ふ。また、雑役(ざうやく)2)のありけるを教へければ、「これこそ」とて、走りかかつて、首をくわへてわがもとに来たり。子のばけまつも、ともに食ひてんげり。
その後、ばけまつ暇(いとま)を乞ひければ、狼、申しけるは、「いまだなんぢは学問も達せず。今しばらく」とてとどめけれども、「いな」とてまかり帰る。母狐(ははきつね)これを見て、「何とて早く帰るぞ」と云ひければ、学問をば、よく極めてこそ候へ。その手並みを見せ奉らん」とて、山野に出づ。
狐、豚を見て、「これを捕れかし」と教へければ、「あれは毛ただこはきものにて、口の毒なり」とて捕らず。牛を教へければ、「パストル・犬などいふものあり」とて捕らず。雑役を教へければ、ばけまつ申しけるは、「あな嬉し。これこそ」とて、狼のしたるごとく首に飛びかかりければ、結句(けつく)馬に食らひ殺さる。母、悲しむことかぎりなし。
そのごとく、いささかのことを師匠に学びて、いまだ師匠も許さぬに、「達したる」と思ふべからず。この狐も、年月を経て、狼のしわざを習はば、かかる聊爾(れうじ)なるわざをばせじとぞ。
翻刻
十 狐と狼の事 あるきつね子をまふけけるにおほかめをおそれて 名付おやとさたむ狼承てそのなをはけまつとつけ/3-90r
たり狼申けるは其子を我そはにおいて学もんさせ よをんあひのあまりみたりにはるくるひさすなと いへは狐けにもと思ひ狼にあつけぬ狼此はけまつ をつれてある山のたけにあかりわか身はまとろみ ふしたりけたものとをらはをこせよと云つけたり さるによてふたその辺をとをる程にはけまつ狼を おこして是ををしゆ狼申けるはいさとよあのふた はけもたたこはくして口をそこなふ物也これをは とるましきといふ又牛を野かひにはなすほとに はけまつおしへけれは狼申けるは是もはすとる いぬなと云物おほしとるましといふ又さうやくの/3-90l
https://dl.ndl.go.jp/pid/2532142/1/90
有けるをおしへけれはこれこそとてはしりかかつて くひをくわへて我本にきたり子のはけまつもとも にくいてんけり其後はけまついとまをこひけれ はおほかめ申けるはいまた汝はかくもんもたつ せす今しはらくとてととめけれ共いなとてまかり かへる母きつねこれをみてなにとてはやくかへる そと云けれはかくもんをはよくきはめてこそ候へ その手なみを見せ奉らんとて山野にいつきつね ふたをみてこれをとれかしとおしへけれはあれは けたたこはき物にて口のとくなりとてとらす牛を おしへけれははすとるいぬなと云ものありとて/3-91r
とらすさうやくをおしへけれははけまつ申けるは あなうれしこれこそとて狼のしたることくくひに とひかかりけれはけつく馬にくらゐころさる母かな しむ事かきりなしそのことくいささかの事を師 匠にまなひていまた師しやうもゆるさぬに達し たると思ふへからすこの狐も年月をへて狼のし わさを習ははかかるれうしなるわさをはせしとそ/3-91l