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下巻 第9 狼と犬の事
校訂本文
あるパストル1)、羊の警固(けいご)に犬を持ちけれど、餌食(ゑじき)をすなほに与へざれば、痩せ衰へてぞありける。狼(おほかめ)、このよしを見て、「御辺(ごへん)は何とて痩せ給ふぞ。われに羊を一匹賜べ。かの羊を盗み取りて逃げん時、あとより追つかけまろび給へ。このこと見給ふならば、御辺に餌食を給ふべし」と云へば、「げにも」と同心す。
案のごとく、狼、羊をくはへて逃げ去る時、犬、あとより追つかけまろび倒(たは)れて帰りけり。パストル怒(いか)つて云はく、「何とて羊を取られけるぞ」と云ひければ、犬、答へて云はく、「われこのほど餌食なくして、さんざんに疲労つかまつりて候ふ。そのゆゑに、羊を取られて候ふ」と云へば、「げにも」とて、それよりして餌食を与へぬ。
また狼来たりて、「わがはかりごと、いささか違(たが)ふべからず。今一匹羊を給はれ。このたびも追つかけ給へ。われにいささか傷を付けさせ給へ。しかれども深手(ふかで)ばし負(お)ほせ給ふな」と、かたく契約して、羊をくわへて逃ぐる所を、つと追つかけ、かの狼を少し食ひ破りて帰りぬ。主人、これを見て、「心よし」とて、いよいよ餌食を与へて、すくやかにす。
また狼来たりて、今一つ所望(しよまう)す。犬、申しけるは、「このほど主人より飽くまで餌食を与へられ、五体もすくやかになり候へば、えこそ参らすまじき」と云ひはなしければ、「何をがな」と望みけるほどに、犬、教へて云はく、「わが主人の籠(かご)2)に、さまざまの餌食あり。行きて用ゐ給へ3)」と云ひければ、「さらば」とて籠に行き、まづ酒壺(さかつぼ)を見て、思ひのままにこれを飲む。飲み酔(ゑ)いて後、ここかしこたたずみ歩(あり)くほどに、パストルの歌ふを聞きて、「かれ、汚なげなる者さへ歌ふに、われまた歌はであらんや」とて、大声あけてをめくほどに、里人、聞きつけて「あはや、狼の来たるは」とて、弓・胡籙(やなぐひ)にて馳せ集まる。これによて、狼、つひに亡ぼされぬ。
そのごとく、召し使ふ者に扶持(ふち)を加へざれば、その主(あるし)の物を費すと見えたり。
翻刻
九 狼と犬の事 有はすとる羊のけいこに犬をもちけれとえしきを すなほにあたへされはやせをとろへてそありける 狼このよしをみて御辺はなにとてやせ給ふそ我に/3-88l
https://dl.ndl.go.jp/pid/2532142/1/88
羊を一疋たへかのひつしをぬすみとりてにけん とき跡よりおつかけまろひたまへこの事見給ふ ならは御辺にえしきを給へしといへはけにもと 同心す案のことく狼ひつしをくわへてにけ去時 いぬあとよりおつかけまろひたはれてかへりけり はすとるいかつて云何とてひつしをとられける そといひけれはいぬ答云われ此程ゑしきなくして さんさんにひらうつかまつりて候そのゆへに羊を とられて候といへはけにもとてそれよりしてえ しきをあたへぬ又狼来てわかはかりこといささか たかふへからす今一ひきひつしを給れこのたひ/3-89r
もおつかけ給へわれにいささかきすを付させ給へ しかれともふかてはしおほせ給ふなとかたくけい やくして羊をくわへてにくる所をつとおつかけか の狼をすこしくいやふりてかへりぬ主人是を見て こころよしとて弥ゑしきをあたへてすくやかにす又 狼来ていま一つ所望す犬申けるはこのほと主人 よりあくまてえしきをあたへられ五体もすくやか になり候へはえこそまいらすましきと云はなし けれはなにをかなとのそみけるほとに犬おしへて云 わか主人の籠にさまさまのゑしき有ゆきてもち いと云けれはさらはとて籠に行まつさかつほを/3-89l
https://dl.ndl.go.jp/pid/2532142/1/89
見て思ひのままにこれをのむのみ酔て後ここかし こたたすみありく程にはすとりのうたふをききて かれきたなけなるものさへうたふに我又うたはて あらんやとて大声あけておめくほとに里人きき つけてあはや狼のきたるはとてゆみやなくひにて はせあつまる是によておほかめ終にほろほされぬ 其ことくめしつかふものにふちをくはへされは そのあるしの物をつゐやすとみえたり/3-90r