下巻 第11 野牛と狼の事
校訂本文
ある人、あまたの羊を買い取り、その後、羊の警固(けいご)に猛(たけ)き犬をそ買ひ添へける。これによて、狼(おほかめ)少しもこの羊を犯さず。
しかるに、かの犬、にはかに死にけり。パストル1)憂へて云はく、「この犬、死して後は、羊さだめて狼に捕られなんず。いかがはせん」と歎きければ、野牛進み出でて申しけるは、「このこと、あながちに悲しみ給ふべからず。そのゆゑは、わが角(つの)を落とし、かの犬の皮を着せて、羊を警固させ給へ。さだめて狼恐れなんや」と申しければ、パストル、「げにも」とて、そのごとくしけり。これによて、狼、犬かと心得て、羊のそばに近付くことなし。
しかるところに、狼、もつてのほか飢ゑに疲れて、その死せんことをもかへりみず、つと寄つて羊をくわへて逃ぐるところを、かの野牛、追つかけたり。狼、あまりに恐れていばらの中へ逃げ入りければ、野牛、続いて追つかけたり。
何とかしたりける、犬の皮をいばらに引つかけて、もとの野牛にぞあらはれける。狼、このよしを見て、「こは、不思議なるありさまかな。犬かと思へば野牛にてあんめるぞや」とて、立ち返り、野牛を召し籠め、「なんぢ、何のゆゑにわれを追ふぞ」と云ひければ、野牛、言葉なうして、「御辺(ごへん)の駆け足のほどをこころみんとのために、戯(たはぶ)れにこそ」と陳じければ、狼、怒(いか)つて申すやう、「戯れもことにこそよれ。いばらの中へ追つこうで2)、手足をかやうに損ふこと、何の戯れぞや。しよせん、その返報(へんぽう)に御辺を食ひ殺し奉るべし」と云ひて亡ぼしぬ。
そのごとく、汚き者の身として、さかしき人をたぶらかさんとすること、蟷螂(たうらう)が斧をもつて隆車(りゆうしや)に向ふがごとし。うつけたる者は、うつけて通るが一芸ぞや。賢立(かしこだて)こそうとましけれ。
万治二年版本挿絵
翻刻
十一 野牛と狼の事 ある人あまたの羊をかいとり其後羊のけいこに たけき犬をそかひそへけるこれによて狼すこしも 此ひつしをおかさすしかるにかのいぬ俄に死に/3-91l
https://dl.ndl.go.jp/pid/2532142/1/91
けりはすとるうれへて云この犬しして後はひつし さためて狼にとられなんすいかかはせんとなけき けれは野牛すすみ出て申けるはこの事あなかちに かなしみ給ふへからす其ゆへは我角をおとしかの いぬのかはをきせてひつしをけいこさせたまへ さためておほかめおそれなんやと申けれははす とるけにもとてそのことくしけりこれによておほ かめいぬかと心えてひつしのそはにちかつく事 なし然所におほかめもつての外うゑにつかれて そのしせん事をもかへり見すつとよつてひつし をくわへてにくる所をかの野牛おつかけたりおほ/3-92r
かめあまりにおそれていはらの中へにけ入けれは 野牛つつゐておつかけたり何とかしたりける犬の かはをいはらに引かけてもとの野牛にそあらはれ ける狼此よしを見てこはふしきなるありさまかな いぬかと思へは野牛にてあんめるそやとて立かへ りや牛をめしこめ汝なにのゆへにわれをおふそと いひけれは野牛ことはなふして御辺のかけあしの程 をこころみんとのためにたはふれにこそとちんし けれは狼いかつて申やうたはふれも事にこそよれ いはらの中へおつこうて手足をかやうにそこなふ 事なにのたはふれそや所詮その返報に御辺を/3-92l
https://dl.ndl.go.jp/pid/2532142/1/92
くひころし奉るへしといひてほろほしぬ其ことく きたなきものの身としてさかしき人をたふらか さんとする事たうらうかをのをもつてりうしや にむかふかことしうつけたるものはうつけて とをるか一けいそやかしこたてこそうとましけれ/3-93r