目次
下巻 第7 狼、夢物語の事
校訂本文
ある時、狼(おほかめ)、夢に高き位に住(ぢゆう)して、飽くまで食(しよく)すと見たりける明日、狼、山を出づる時、道辺(みちべ)に猪(いのしし)のはらわたあり。「すはや、めでたし。はや餌食(ゑじき)のありけるよ」と喜びさかへけるが、「いやいや、これは腹の毒なり。よき餌食こそは食はめ」とて、そこを過ぎて行きぬ。
ある山の岨(そは)に、子を連れたる馬ありけり。狼、このよしを見て、「これこそよき餌食なれ。食はばや」と心得て、馬に向かつて申しけるは、「なんぢが子をば、わが餌食となすべし。心得よ」と云ひければ、馬、答へて云はく、「ともかくも仰せにこそは従はめ」とてゐたりけるが、馬、狼に申しけるは、「承り候へば、外痙(げきやう)の上手と申す。われ、このほど足にくいぜを踏み立てて候へば、恐れながら御目にかけたし」と申す。「やすきこと」と云ふほどに、馬、片足をもたげて、「これを見給へ」と云ひければ、狼、うちあふのひて見ける所を、岸より下に踏み落し、わが子を連れて帰りけり。
狼、これをばことともせず、「ただ今こそしけんする1)とも、またこそ」と思ひ、かしこに駆け巡るほどに、野辺に野牛二匹ゐたり。狼、これを見て、「これこそ」と思ひ、野牛に向かつて申しけるば、「なんぢがうち一匹、わが餌食にすべし」と申しければ、野牛、「謹(つ)しんで承る。ともかくもにて侍るなり。ここに申すべき子細あり。久しく争ふことの侍れば、御裁判をもつて後、何ともはからはせ給へかし」と申しければ、狼、「何事ぞ」と問ふ。野牛、答へて云はく、「この野を二人争ひ候ふ。ただし、給ふべき人なきによて、勝負をつけがたく候ふ。しからずは、われら二匹、向かひより御そばに走り来たり候ふべし。とく走り着きたらん者に、その理(ことわり)を付けさせ給へ」と云ふ。「とくとく」と申しければ、野牛、向かひより、左右(ひだりみぎ)に走りかかり、角(つの)にて狼の太腹(ふとはら)をかき切つて、その身は山にぞ入りにける。狼、傷をかうむりて、「こは、しあはせ悪(わろ)きことかな」と、鼻息鳴らしてそこを過ぎぬ。
また、川のほとりに、豚(ぶた)親子争ひゐける所を、「これこそ」と思ひ、豚に向かつて申しけるは、「なんぢが子を餌食とすべし。心得よ」と申しければ、豚、心得て云はく、「ともかうも、御はからひに任せ侍るべし。ただし、わが子はいまだ幼少に候へば、戒縁(かいえん)を授けず候ふ。見申せば、御出家の御身なり。御結縁(けちえん)に戒を授け給へかし」と望みければ、讃めあげられて、「さらば」と云ふ。橋の上に登りて、「ここに来たれ」と申しけるを、豚、わが子を連れて行きざまに、つと寄りて、橋より下に突き落し、わが身は家にぞ帰りける。
狼、浮きぬ沈みぬ流されて、やうやうと這ひ上がり、「あら夢み悪しや」とぞ云ひける2)。
翻刻
七 狼夢物語の事 ある時狼夢に高き位にちうしてあくまてしよくす とみたりける明日狼山を出るとき道辺にいのしし のはらわたありすはやめてたしはやえしきのあり けるよとよろこひさかへけるかいやいやこれは腹 のとくなりよきゑしきこそはくわめとてそこを すきて行ぬある山のそはに子をつれたる馬あり/3-86r
けり狼此由を見て是こそよきゑしきなれくわはや と心えて馬にむかつて申けるは汝か子をはわか ゑしきとなすへし心えよといひけれは馬こたへて 云ともかくも仰にこそはしたかはめとてゐたり けるか馬狼に申けるは承候へはけきやうの上手 と申われ此ほと足にくいせをふみたてて候へは おそれなから御めにかけたしと申やすき事と いふ程にむまかたあしをもたけてこれを見給へと 云けれは狼うちあふのひて見ける所をきしより 下にふみおとしわか子をつれてかへりけり狼これ をは事ともせすたた今こそしけんする共又こそ/3-86l
https://dl.ndl.go.jp/pid/2532142/1/86
と思ひかしこにかけめくるほとにのへに野牛二疋 ゐたり狼これをみて是こそと思ひ野牛にむかつて 申けるは汝かうち一疋わかえしきにすへし と申けれは野牛つしんて承ともかくもにて侍るなり ここに申へき子細あり久しくあらそふことの侍 れは御さいはんをもつてのち何共はからはせ給へ かしと申けれはおほかめなに事そととふ野牛答云 此のをふたりあらそひ候但給ふへき人なきによて せうふをつけかたく候しからすはわれら二ひきむ かひより御そはにはしりきたり候へしとくはしり つきたらん物に其理を付させ給へと云とくとくと/3-87r
申けれは野牛むかひよりひたり右にはしりかかり 角にて狼のふとはらをかききつてその身は山にそ 入にける狼きすをかうむりてこはしあはせわろき 事哉とはないきならしてそこを過ぬ又河のほとり にふたおや子あらそひゐける所を是こそと思ひふた にむかつて申けるは汝か子をえしきとすへし心 えよと申けれはふた心えて云ともかうも御はからひ にまかせ侍るへしたたし我子はいまたようせう に候へはかいえんをさつけす候見申せは御出家 の御身なり御けちえんにかいをさつけ給へかし と望けれはほめあけられてさらはといふはしの上/3-87l
https://dl.ndl.go.jp/pid/2532142/1/87
にのほりてここにきたれと申けるをふた我子を つれて行さまにつとよりてはしより下につき おとし我身は家にそかへりける狼うきぬしつみぬ なかされてやうやうとはひあかりあら夢み悪や/3-88r