下巻 第6 狼と狐の事
校訂本文
ある川のほとりに、狐、魚(うを)を食ひける折節、狼、飢ゑ1)にのぞんで、歩み来たれり。狐に申すやう、「その魚を少し与へよ。餌食(ゑじき)になしてん」と云ひければ、狐、申しけるは、「あなおそれ多し。わが分けを奉るべしや。籠(かご)を一つ持ち来たらせ給へ。魚を捕りて参らせん」と云ふ。狼、かしこに駆け回つて籠を取りてぞ来たりける。
狐、教へけるやうは、「この籠を尾に付けて、川のまん中を泳がせ給へ。あとより魚を追ひ入れん」と云ふ。狼、籠をくくり付けて、川を下りに泳ぎける。狐、あとより石を取り入れければ、次第に重くて、一足(ひとあし)も引かれず。狼、狐に申しけるは、「魚の入りたるか、ことのほか重くなりて、一足も引かれず」と云ふ。狐、申しけるは、「さん候ふ。ことのほかに魚の入りて見え候ふほどに、わが力にては引き上げがたく候へば、獣(けだもの)を雇ひてこそ参らめ」とて、陸(くが)に上がりぬ。
狐、あたりの人々に申し侍るは、「かのあたりの羊を来らひたる狼をこそ、ただ今、川中にて魚を盗み候ふ」と申しければ、われ先にと走り出で、散々に打擲(ちやうちやく)しける。そばより粗忽者(そこつもの)走り出でて、刀を抜いてこれを切るに、何とかしたりけん、尾をふつと打ち切つて、その身は山へぞにげ入りける。
おりしも獅子王、異例のことありけるは、御気色(きしよく)大事に見えさせ給ふ。われ、このほど諸国を巡りて、承り及び候ひぬ。狐の生き皮を御膚(はだへ)に付けさせ給はば、やがて御平癒(へいゆう)あるべし」と申す。狐、このことを伝へ聞きて、「憎い狼が訴訟かな」と思ひながら、召しに応じて獅子王の御前に、偽りごとにおのれが身を泥にまろびして出で来たり。
獅子王、このよしを見るよりも、「近う参れ。申すべき子細あり。近きほど、なんぢを一の人とも定むべき」など、めでたう申しければ、狐、察して答へける、「あまり慌て騒いで参じけるとて、道にてまろび候ふほどに、もつてのほかに装束(しやうぞく)の汚(けが)らはしく候ふ。かへつて御違例(おんゐれい)2)の障(さは)りともなりなんや」と云ひて、重ねて申しけるは、「われ、このほど人に習ひ候ふに、かやうの御違例には、尾の無き狼の四つ足と、面(つら)の皮を残し、生き皮を剥ぎて召させ給ひ候へば、たやすく平癒すと伝へて候ふ。ただし、尾の無き狼はあるべうも候はず」と申しければ、獅子王、「これこそここにあれ」と、かの狼を待つ所に何心なく参り候ひける。すなはち獅子王、引き寄せて、云ひしごとくに皮を剥いで、命ばかりを助けにけり。
その後、ある山のそばに、件(くだん)の狐、ながめゐける折節、また狼もそこを通る。狐、申しけるは、「これを通らせ給ふは誰人(たれびと)にてわたらせ給ふぞ。かほど暑き炎天に、頭巾(づきん)をかづき、足袋(たび)を履き、弓懸(ゆがけ)をさいて見え給ふは、もしひが目にてもや候ふらん、五体を見れば、赤裸(あかはだか)にて、虻(あぶ)ぞ、蜂(はち)ぞ、蝿(はい)ぞ、蟻(あり)なんどいふもの、隙間(すきま)なく取り付きたり。ただし着るものの形(かた)にてばし侍るか。よくよく見候へば、いつぞや獅子王によしなき訴訟し給ふ狼なり」とて、あざけりける。
そのごとく、みだりに人を讒奏(ざんそう)すれば、人またわれを讒奏する。春、来たる時は、冬、また隠れぬ。夏、過ぎぬれば、秋風立ちぬ。一人何者か世に誇るべきや。
万治二年版本挿絵
翻刻
六 おほかめときつねの事 ある河の辺に狐うほをくひける折節狼上にのそん てあゆみきたれりきつねに申やう其うほをすこし あたへよゑしきになしてんと云けれはきつね申ける はあなおそれおほしわかわけを奉るへしやかこを 一つもちきたらせ給へうほをとりて参らせんと云 狼かしこにかけまはつて籠をとりてそ来りけるき つねをしへけるやうはこのかこを尾につけて河の/3-83l
https://dl.ndl.go.jp/pid/2532142/1/83
まん中をおよかせ給へ跡よりうほをおひいれんと いふ狼籠をくくりつけて河をくたりにおよきける きつねあとより石をとり入けれはしたいにおも くて一足もひかれす狼きつねに申けるはうほの 入たるかことの外おもくなりて一あしもひかれ すといふきつね申けるはさん候ことの外にうほ の入てみえ候ほとにわか力にては引あけかたく候 へはけたものをやとひてこそまいらめとてくかに あかりぬきつねあたりの人々に申侍はかのあたり の羊をくらいたる狼をこそたた今かは中にてうほ をぬすみ候と申けれはわれさきにとはしりいて/3-84r
さんさんにちやうちやくしけるそはよりそこつ ものはしり出て刀をぬひてこれをきるになにと かしたりけん尾をふつとうちきつてその身は山へ そにけ入けるおりしも師子王いれいの事あり けるは御きしよく大事にみえさせ給ふ我この程 諸国をめくりて承およひ候ひぬ狐のいきかはを御 はたへにつけさせ給ははやかて御平ゆうあるへし と申きつね此事をつたへききてにくい狼かそ せうかなと思ひなからめしにおふして師子王の 御まへにいつはりことにをのれか身をとろにまろ ひして出来たり師子王この由を見るよりもちかふ/3-84l
https://dl.ndl.go.jp/pid/2532142/1/84
まいれ申へき子細ありちかきほと汝を一の人とも さたむへきなとめてたふ申けれはきつねさつし て答けるあまりあはてさはひて参しけるとて道 にてまろひ候ほとにもつての外にしやうそくの けからはしく候かへつて御れいのさはりともなり なんやといひてかさねて申けるは我このほと人に ならひ候にか様の御いれいには尾のなき狼の四つ あしとつらのかはをのこしいきかはをはきてめ させたまひ候へはたやすく平ゆうすとつたへて候 たたしをのなき狼はあるへうも候はすと申けれは ししわう是こそここにあれとかの狼をまつ所に/3-85r
なに心なく参候ひける則師子王ひきよせていひ しことくにかはをはひて命斗をたすけにけり其 後ある山のそはに件のきつねなかめ居ける折節又 狼もそこをとをる狐申けるはこれをとをらせ給ふ はたれ人にてわたらせ給ふそか程あつきえんてん につきんをかつきたひをはきゆかけをさひてみえ たまふはもしひか目にてもや候らん五体をみれは あかはたかにてあふそはちそはいそありなんと云 ものすきまなくとりつきたりたたしきるものの かたにてはし侍るかよくよく見候へはいつそや師 子王によしなきそせうし給ふ狼なりとてあさ/3-85l
https://dl.ndl.go.jp/pid/2532142/1/85
けりける其ことくみたりに人をさんそうすれは 人又我をさんそうする春来るときは冬又かくれぬ 夏過ぬれは秋風立ぬひとりなにものか世にほこる へきや/3-86r