text:isoho:ko_isoho2-34
中巻 第34 鹿(かのしし)の事
校訂本文
ある時、鹿(かのしし)、川のほとりに出でて水を飲みける時、なんぢが角(つの)の影、水に映(うつ)て見えければ、この角のありさまを見て、「さても、わがいただきける角は、よろづの獣(けだもの)の中に、また並ぶ者あるべからず」と、かつは高慢の思ひをなせり。
また、わが四つ足の影、水底(みづそこ)に映(うつ)て、いと頼りなく細くして、しかも蹄(ひづめ)二つに割れあり。また鹿(しし)心に思ふやう、「角はめでたう侍れど、わが四つの足はうとましげなり」と思ひぬる所に、心より人の声ほのかに聞こえ、そのほか犬の声もしけり。
これによて、鹿(かのしし)、山中に逃げ入る。あまりにあはて騒ぐほどに、ある木のまたに、おのれが角をひきかけて、下(した)へぶらりと下がりけり。抜かん抜かんとすれども、よしなし。鹿(しし)、心に思ふやう、「よしなき、ただ今のわが心や。いみじく誇りける角も、われあとになつてうとんじて、四つの肢(えだ)こそわが助けなるものを」と独り言して思ひ絶えぬ。
そのごとく、人もまたこれに変はらず、「いつきかしづきけるものは、仇(あた)となつてうとんじ、退けぬるものは、わが助けとなるものを」と後悔することこれありけるものなり。
翻刻
卅四 かのししの事 あるときかのしし河のほとりにいてて水をのみ ける時汝かつののかけ水にうつてみえけれは此つの のありさまを見てさてもわかいたたきけるつのは 万のけたものの中に又ならふ物あるへからすと かつはかうまんのおもひをなせり又わか四つ足の かけみつそこにうつていとたよりなくほそくして しかもひつめ二つにわれあり又しし心に思ふ やうつのはめてたふ侍れとわか四つの足はうと ましけなりと思ひぬる所にこころより人の声ほの/2-68l
https://dl.ndl.go.jp/pid/2532142/1/68
かに聞え其外犬の声もしけり是によてかのしし 山中ににけ入あまりにあはてさはく程にある木の またにをのれかつのをひきかけてしたへふらりと さかりけりぬかんぬかんとすれともよしなししし 心に思ふやうよしなきたたいまのわか心やいみし くほこりけるつのも我あとになつてうとんして四 つのえたこそ我たすけなる物をとひとりことして 思ひたへぬそのことく人もまた是にかはらすいつ きかしつきける物はあたとなつてうとんししり そけぬるものは我たすけとなる物をとこうくわい する事これありける物なり/2-69r
text/isoho/ko_isoho2-34.txt · 最終更新: by Satoshi Nakagawa