text:isoho:ko_isoho2-30
中巻 第30 馬と獅子王の事
校訂本文
ある時、馬(むま)、野へ出でて草をはげみける所に、獅子王、ひそかにこれを見て、「かの馬を食(しよく)せん」と思ひしが、「まづ武略(ぶりやく)をめぐらしてこそ」と思ひ、馬の前にかしこまつて申しけるは、「御辺(ごへん)はこのほど何事をかは習ひ給ふぞ。われはこのごろ医学をなんつかまつり候ふ」となん申しければ、馬、獅子王の悪念をさとつて、「われもたばからばや」と思ひ、獅子王に向かつて申しける、「そもそも御辺はうらやましくも医学を習はせ給ふものかな。幸ひ、わが足に株(くひぜ)を踏み立ててわづらふなり。御覧じてたべかし」となん云ひける。師子王、「得たり」と、「見ん」と云ふ。「さらば」とて、馬片足をもたげければ、獅子王、なに心ごころもなく、あふのきになつて爪の裏を見るところを、もとよりたくみしことなれば、したたかに獅子王の面(つら)を続けざまに踏んだりける。さしも猛き獅子王も、気を失なひて起きも上がらず。そのひまに馬は遥かに駆け去りぬ。
その後、獅子王、はうはうと起き上がり、身震ひして独り言を申しけるは、「よしなきそれがしがはかりごとにて、すでに命を失なはんとす。道理の上よりもつて戒めをかうぶること、これ馬のわざにあらず。ただ天道(てんたう)の御戒めとぞ覚えける」。
そのごとく、一切の人間も、知らぬことを知り顔に振舞はば、たちまち恥辱を受けんこと疑ひなし。知ることを知るとも、知らざることをば知らずとせよ。ゆるがせに思ふことなかれ。
万治二年版本挿絵
翻刻
卅 馬と師子王の事 あるとき馬野へ出て草をはけみける所に師子王 ひそかに是を見てかの馬をしよくせんと思ひし かまつふりやくをめくらしてこそとおもひむまの まへにかしこまつて申けるは御辺は此程何事 をかはならひたまふそ我はこのころいかくをなん/2-64r
つかまつり候となん申けれはむまししわうの悪念を さとつて我もたはからはやとおもひししわうにむ かつて申けるそもそも御辺はうら山しくもいか くをならはせ給ふ物哉さいはひわか足にくゐせを ふみたててわつらふなり御らんしてたへかしと なんいひける師子王えたりとみんといふさらは とて馬かたあしをもたけけれはししわうなにこころも なくあをのきになつてつめのうらを見る所をもと よりたくみし事なれはしたたかにししわうのつら をつつけさまにふんたりけるさしもたけきしし王 もきをうしなひてをきもあからすそのひまに馬は/2-64l
https://dl.ndl.go.jp/pid/2532142/1/64
はるかにかけさりぬそののち師子王はうはうと おきあかり身ふるひしてひとりことを申けるは よしなきそれかしかはかり事にてすてに命を うしなはんとす道理のうへよりもつていましめを かうふる事これむまのわさにあらすたた天道の 御いましめとそおほえけるそのことく一さいの人 間もしらぬ事をしりかほにふるまははたちまち ちしよくをうけん事うたかひなししる事をしる ともしらさる事をはしらすとせよゆるかせに 思ふ事なかれ/2-65r
text/isoho/ko_isoho2-30.txt · 最終更新: by Satoshi Nakagawa