中巻 第25 蛙(かはづ)が主君をのぞむ事
校訂本文
アテエルスといふ所に、かの主君なくて、何事も心にまかせなんありける。その所の人、あまりに誇りけるにや、「主人を定めばや」なんどと議定(きぢやう)して、すてに主人をぞ定めける。かるがゆゑに、いささかの僻事(ひがごと)あれば、その人、罪科(ざいくわ)に行ふ。これ にて、里の人に主君を定めけるを悔い悲しめどもかひなし。
そのころイソポ、その所に至りぬ。所の人々、このことを語るに、その良し悪しをば云はず。喩へを述べて云はく、
「昔、ある川にあまたの蛙(かいる)集まりゐて、『わが主人を定めばや』と議定し侍りき。『もつとも、しかるべし』とて、おのおの天に仰ぎ、『わが主人を与へ給へ』と祈請(きせい)す。天道(てんたう)これをあはれんで、柱を一つ賜ひけり。その柱の川に落ち入る音、底に響きておびたたし。この声に恐れて、蛙ども水中に沈み隠れ、静まつて後、汚泥(おでい)の中より眼(まなこ)を見上げ、『何事もなきぞ。まかり出でよ』とて、おのおの渚(なぎさ)に飛び上がりぬ。
さて、この柱を囲遶(ゐねう)して、わが主人とぞもてなしける。されども、無心の柱なれば、つひにあざけつて、おのおのこの上に飛び上がり、また天道に仰ぎけるは、『主人は心なき木なり。同じくは、心あらん物を賜べかし』と祈りければ、『にくいしやつばらが物好みかな』とて、このたびは鳶(とび)を主人と与へ給ふ。主君によて、蛙、かの柱の上に上がる時は、鳶、これをもつて餌食(ゑじき)とす。その時、蛙、千度(ちたび)後悔すれどもかひなし」。
そのごとく、人はただわが身にあたはぬことを願ふことなかれ。初めより人に従ふものの、今さらひとり身とならんもよしなきことなり。また、自由にありける人の、主人を頼むも僻事なり。ただそれぞれに当たることをつとむべきこと、もつぱらなり。
翻刻
廿五 かはつか主君をのそむ事 あてえるすといふ所にかの主君なくて何事も心 にまかせなんありけるその所の人あまりにほこり けるにや主人をさためはやなんとときちやうして すてにしゆしんをそさためけるかるか故にいささ かのひか事あれはその人さいくわにおこなふこれ にて里の人にしゆくんをさためけるをくゐかな しめともかひなしその比いそほその所にいたりぬ/2-59l
https://dl.ndl.go.jp/pid/2532142/1/59
所の人々此ことを語にそのよしあしをはいはすた とへをのへて云昔ある河にあまたのかいるあつ まり居て我しゆしんをさためはやときちやうし 侍りきもつともしかるへしとて各てんに仰我しゆ 人をあたへ給へときせいすてんたう是をあはれん て柱を一つ給りけりそのはしらのかはにおち入 をとそこにひひきておひたたし此声におそれ てかいるとも水中にしつみかくれしつまつて後お ていのなかよりまなこを見あけなに事もなきそ まかり出よとてをのをのなきさにとひあかりぬ さてこのはしらをいねうして我しゆ人とそもて/2-60r
なしけるされとも無心の柱なれは終にあさけつて各 此上にとひあかり又天道にあふきけるは主人は心 なき木也同は心あらん物をたへかしといのりけれは にくひしやつはらか物このみかなとてこのたひは とひを主人とあたへ給ふ主君によて蛙かのはしら の上にあかる時はとひ是をもつてゑしきとす其時 蛙ちたひこうくわいすれ共かひなしそのことく人 はたたわか身にあたはぬ事をねかふ事なかれ初 より人にしたかふものの今さらひとり身とならん もよしなき事也又ちゆうに有ける人のしゆしん をたのむもひか事なりたたそれそれにあたる事/2-60l
https://dl.ndl.go.jp/pid/2532142/1/60
をつとむへき事もつはらなり/2-61r