上巻 第14 中間と侍と馬を争ふ事
校訂本文
ある中間(ちゆうげん)、主人の馬に乗りて、はるかのよそへおもむくところに、侍(さぶらひ)一人行き合ひ、すなはち怒つて云はく、「われ侍の身として徒歩(かち)にて行くに、なんぢは人の所従なり。その馬より降りて、われを乗せよ。しからずは、細首(ほそくび)切つて捨てん」と云ふ。中間、心に思ふやう、「この途中にて訴ふべき人なし。とかく難渋(なんじふ)せば頭(かうべ)をはねられんこと疑ひなし」。是非に及ばず馬より降りけり。侍、わがもの顔にうち乗りて、彼を召し連れ行くほどに、サンといふ所になんなく着きける。
中間、そこにてののしるやう、「わが主人の馬なり。返し給へ」と云ふ。侍、馬に乗りながら、「狼藉(らうぜき)なり。二度(ふたたび)その声ののしるにおいては、運気をはねん」と云ひければ、中間、いかんとも1)せずして、その所の守護識(しゆごしき)に行きて、このよしを訴(うつ)たふ。
さるによつて、守護より武士(もののふ)をつかはし、かの侍を召し具しけり。かれとこれと争ふところ決しがたし。守護に理非をわけかねて、イソポを呼びて検断(けんだん)せしむ。
イソポ、これを聞きて、まづ中間を語らうて、ひそかに云はく、「かの侍、紀明2)せんとき、なんぢ、あはててもの云ふことなかれ」といましめらる。中間、つつしんでかしこまる時に、イソポのはかりごとに、上着を脱いでかの馬の面(つら)に投げかけ、侍に問ひけるは、「この馬の眼(まなこ)、いづれかつぶれけるか」と問ふ。侍、返事に堪へかねて、思案3)すること千万なり。思ひわびて、「左の目こそつぶれたる」と申す。その時、上着をひきのけて見れば、両眼(りやうがん)まことに明きらかなり。
これによつて、馬をば中間に与へ、かの侍をば恥ぢしめて、時(とき)の是非をは分けられけり。
万治二年版本挿絵
翻刻
十四 中間とさふらひと馬をあらそふ事 ある中間主人の馬にのりてはるかのよそへおもむ く所にさふらひ一人行あひ則いかつて云我侍の 身としてかちにてゆくに汝は人の所従なりその馬 よりおりて我をのせよしからすはほそくひきつて すてんといふちうけん心に思ふやう此とちうにて うつたうへき人なしとかくなんしうせはかうへを はねられん事うたかひなし是非にをよはすむ まよりおりけり侍わか物かほにうち乗てかれを召 つれゆくほとにさんといふ所になんなくつきける/1-23l
https://dl.ndl.go.jp/pid/2532142/1/23
中けんそこにてののしるやうわか主人のむまなり 返し給へと云侍むまに乗なかららうせきなり二 たひ其声ののしるにおゐてはうんきをはねん といひけれは中けんいんともせすしてその所の守 護識にゆきてこのよしをうつたう去によつて守護 よりもののふをつかはしかの侍をめしくしけりか れとこれとあらそう所けつしかたし守護に理非 をわけかねて伊曾保をよひてけんたむせしむい そ保これをききてまつちうけんをかたらうてひそ かに云かのさふらひ紀明せんとき汝あはててもの いふ事なかれといましめらるちうけんつつしん/1-24r
てかしこまる時に伊曾保のはかり事にうはきを ぬいてかの馬のつらになけかけさふらひにとひ けるは此馬のまなこいつれかつふれけるかと問侍 返事にたへかねて思安する事千万なり思ひわひ て左の目こそつふれたると申其時うはきをひき のけてみれは両かん誠にあきらかなりこれによつ て馬をは中間にあたへかのさふらひをははちし めてときの是非をはわけられけり/1-24l