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上巻 第9 サンの法事の事
校訂本文
ある時、その里にて大法事を執り行ふことありけり。よつて、在所(ざいしよ)の老若男女、袖を連ねてこれを聴聞す。しかるところにサンの守護、よそほひゆゆしくしてめでたうおはしける所に、鷲一つ飛び来たりて、かの守護の指金(ゆびがね)1)をつかみ取りて、いづくともなく飛び去りぬ。これによつて、法事興冷めて、諸人怪しみをなせり。
「これただごとにてあるべからず。シヤントに問ひ奉るべし2)」と人々申しあへり。守護識よりシヤントのもとに使者を立てて、法事の庭に召し請じ、「このこといかに」と問ひ給へば、庭に並みゐたる人々も、これを聞かんと頭(かうべ)をうなだれ耳みみをそば立てて、荒き息をもせず、四方しづまつて後、シヤント物知り顔にうち案じて、「これいみじき御大事にて候へ。たやすく申すべきことにあらず。日数経て静かに勘(かんが)へ奉り、後日にこそ申すべけれ」とて立たれければ、人々その日を定めて退散せり。
シヤント、それより我家(わがや)に帰りて、日夜これを案ずるに、さらに何事どもわきまへず、いたづらに工夫(くふう)をつひやすのみなり。イソポ、このよしを見て、「殿は何事を御案じ給ふぞ」と申しければ、シヤントの云はく、「このことをこう案じけれども、件の字3)の子細を初め終り語り給へば、イソポ申しけるは、「げにも、これはもつてのほかに知りがたきことにて候ふ。ただ、それがしをおのおのの前に召し出だされ、その子細を問ひ給ふべし。そのゆゑは、われ下人の身として、申し誤ち候へばとて、させる恥辱にもあらず。殿の仰せを誤たせ給はば、もつてのほか御恥辱たるべし」と申しければ、「げにも」とて、その日に臨んで、儀定(ぎぢやう)の庭に召し出だしければ、人々、「あやしの者の帯佩(たいはい)や」とて、笑ひさざめきあへり。
しかりといへども、イソポ、少しも臆せずその所をまかり過ぎ、高座に上(のぼ)りて申しけるは、「わが姿のをかしげなるをあやしめ給ふや。それ君子は、卑しきにをれども卑しからず、縕袍(をんぱう)を着ても恥ぢず。なんぞ姿の良し悪しによらんや。道理こそ聞かまほしけれ」と云ひければ、人々、「げにも」と感じあへり。
ややあつて後、イソポ云ひけるは、「われは、これシヤントの下臈(げらう)なり。人々召し仕はるる者の習ひとて、その主(あるじ)の前において物云ふことすみやかならず」と云ひければ、人々、「げにも」と合点(がつてん)して、シヤントに向かひて申されけるは、「イソポ申すところ道理至極なり。このうへは譜代(ふだい)の所を免し給ひ、その子細を云はせ給へかし」と申されければ、シヤント、少しも伏膺(ふくよう)せず。守護人、このよしを聞きて、「惜しみ給ふところも理(ことわり)なれども、この子細を聞かんにおいては、何事をか報ずべきや。もし人なくは、代りをこそ参らすべけれ」と云ひければ、シヤント、惜しむに及ばず、領掌(りやうじやう)せらる。
さるによつて、群集(ぐんしゆ)の中において、「今より以後、イソポはわが譜代にあらず」と申されければ、イソポ重ねて申しけるは、「この日ごろ心地悪しきことあつて、その声高く出で給ふべからず。声能人(こゑよきひと)に仰せて、『譜代の赦免(しやめん)を免す』と高く呼ばはらせ給へ」と望みければ、イソポの云ふごとくに呼ばはりけり。
ややあつて後、イソポ、高座の上より云ひけるは、「鷲、守護の御指金(ゆびがね)を奪ひ候ふことは、鷲は諸鳥の王たり、守護は王に勝つことなし、いかやうにも、他国の王よりこの国の守護を進退(しんだい)せさせ給ふべきや」と云ひける。
翻刻
第九 さんの法事の事 あるときその里にて大法事を執行ことありけり よつてさいしよの老若男女袖をつらねてこれを聴 聞す然所にさむの守護よそほひゆゆしくしてめて たうおはしける所にわしひとつとひきたりてか/1-15r
の守護のゆひかねをつかみとりていつく共なくと ひさりぬこれによつて法事けうさめて諸人あやし みをなせり是たたことにてあるへからすしやんと にむかい奉ると人々申あへり守護識よりしやんと のもとに使者をたてて法事の庭にめし請此事 いかにととひ給へは庭になみゐたる人々もこれを きかんとかうへをうなたれみみをそはたててあら きいきをもせす四方しつまつて後しやんと物しり かほにうちあんしてこれいみしき御大事にて候 へたやすく申へき事にあらす日数へてしつかに かんかへ奉り後日にこそ申へけれとてたたれけれ/1-15l
https://dl.ndl.go.jp/pid/2532142/1/15
は人々その日をさためてたいさんせりしやんと それよりわかやにかへりて日夜これを安するに更 になに事共わきまへすいたつらにくふうをつゐ やすのみなり伊曾保この由をみて殿は何事を御案 し給ふそと申けれはしやむとのいはくこの事を こうあんしけれとも件の字のしさいを初め終り 語り給へはいそほ申けるはけにもこれはもつての 外にしりかたき事にて候たたそれかしを各々の まへにめし出され其しさいを問給ふへし其故は 我下人の身として申あやまち候へはとてさせる ちしよくにもあらす殿の仰をあやまたせたまはは/1-16r
もつての外御ちしよくたるへしと申けれはけにも とてその日にのそんて儀定の庭に召出しけれ は人々あやしの物のたいはいやとてわらひささめ きあへりしかりといへとも伊曾保少もおくせすそ の所をまかりすきかう座にのほりて申けるは我す かたのおかしけなるをあやしめ給ふやそれ君子は いやしきにおれともいやしからすをんはうをき てもはちすなんそすかたのよしあしによらんや道 理こそきかまほしけれといひけれは人々けにもと かんしあへりややあつてのちいそほいひけるは 我はこれしやんとの下臈なり人々召つかはるる物/1-16l
https://dl.ndl.go.jp/pid/2532142/1/16
のならひとてその主の前におゐて物いふ事すみ やかならすといひけれは人々けにもとかつてんして しやんとにむかひて申されけるはいそほ申所 道理至極なり此うへはふたいの所をゆるし給ひ そのしさいをいはせ給へかしと申されけれはし やんとすこしもふくようせす守護人此よしをきき てをしみ給ふ所もことはりなれともこのしさい をきかんにおゐてはなにことをかほうすへきや もし人なくはかはりをこそまいらすへけれと云け れはしやんとをしむにおよはすりやうちやうせら るさるによつてくんしゆの中におゐて今より以後/1-17r
伊曾保はわかふたいにあらすと申されけれはいそ ほかさねて申けるは此日此心ちあしき事あつて其 声たかく出給ふへからす声能人に仰てふたい のしやめんをゆるすとたかくよははらせ給へとの そみけれはいそ保の云ことくによははりけりややあつ て後いそほ高座の上より云けるはわし守護の御 ゆひかねをうはい候事はわしは諸鳥の王たり守 護は王にかつ事なしいか様にも他国の王よりこの 国の守護をしんたいせさせ給ふへきやと云ける/1-17l