上巻 第7 シヤント、潮飲まんと契約候ふ事
校訂本文
ある時シヤント、酒に酔(ゑ)ひけるうちに、ここかしこさまよふ所に、ある人、シヤントをささへて云はく、「御辺(ごへん)は大海の潮(うしほ)を飲み尽くし給はんやいなや」と問へば、「やすく領掌(りやうじやう)す。かの人、重ねて云はく、「もし飲み給はずは、何事をか与へ給ふべきや」と云ふ。シヤントの云はく、「もし飲み損ずるならば、わが一跡(いつせき)を御辺に奉らん」と契約す。「あないみじ。このことたがへ給ふな」と申しければ、「いささかたがふことあるべからず」とて、わが家に帰り、前後を知らず酔ひ臥せり。
覚めて後、イソポ申しけるは、「今まではこの家の御主にてわたらせ給ひけれど、明日からはいかがならせ給ふべきや。そのゆゑは、前(さき)に人と御契約なされしは、『大海の潮を飲み尽くし候ふべし。え飲み給はすは、わが一跡を与へん』とのたまひてあるぞ」と申しければ、シヤント、驚き騒ぎ、「こは、まことに侍るや。何として、あの潮を二口(ふたくち)とも飲み候ふべき。いかに、いかに」とばかりなり。
かくてあるべきにもあらざれば、「この難を逃れまほしうこそ侍れ」といくたびかイソポを頼み給ふ。イソポ申しけるは、「われ譜代(ふだい)の所、御免し給はば、はかりごと教へ奉るべき」と申す。シヤント、「それこそやすき望みなれ。とくとくその計略1)を教へよ」と仰せければ、イソポ答へて云はく、「明日海へ出で給はん時、まづその相手にのたまふべきは、『われ今この大海(たいかい)を飲み尽くすべし。しからば、いちいちに大海へ流れ入るところの河を、ことごとくせきとめ給へ』とのたまふべし。しからば、相手何とか答へ候ふべきや。その時、御あらがひも理運を開かせ給ふべけれ」と申しければ、「げにも」と喜び給へり。
すでにかの日にのぞみしかば、人々、このよしを伝へ聞きて、「シヤントの果てを見ん」とて、海の辺(ほとり)に貴賤群集(ぐんしゆ)をなす。そのときシヤント、高所に走り上がり、かの相手を招き寄せ、イソポの教へけるごとく仰せければ、相手、一言の返答に及ばず、あまつさへシヤントを師匠とあがめ奉りけり。
万治二年版本挿絵
翻刻
第七 しやんとうしほのまんとけいやく候事 ある時しやんと酒に酔けるうちにここかしこさま よふ所にある人しやんとをささへていはく御辺は/1-11l
https://dl.ndl.go.jp/pid/2532142/1/11
大海のうしほをのみつくし給はんやいなやととへ はやすくりやうちやうすかのひとかさねていはく もしのみたまはすはなにことをかあたへ給ふへき やといふしやむとのいはくもしのみそんするなら はわか一せきを御辺に奉らんとけいやくすあな いみし此事たかへ給ふなと申けれはいささかた かふ事あるへからすとてわか家にかへり前後を しらすゑひふせりさめてのちいそほ申けるはいま まてはこの家の御主にてわたらせ給ひけれとあす からはいかかならせ給ふへきやその故はさきに人と 御けいやくなされしは大海のうしほをのみつくし/1-12r
候へしえのみ給はすはわか一せきをあたへんとの 給ひてあるそと申けれはしやんとおとろきさはき こは誠に侍るやなにとしてあのうしほをふた口 共のみ候へきいかにいかにとはかりなりかくて有へき にもあらされは此なんをのかれまほしうこそ侍れ といくたひか伊曾保を頼給ふいそほ申けるは我 ふたいの所御ゆるしたまはははかり事をし へ奉るへきと申しやんとそれこそやすきのそみ なれとくとくその斗略ををしへよと仰けれは伊曾保 答云明日うみへ出給はんときまつ其あひてにの給 へきは我今この大かいをのみつくすへししから/1-12l
https://dl.ndl.go.jp/pid/2532142/1/12
はいちいちに大かいへなかれ入所の河をことこと くせきとめ給へとの給ふへししからはあひてなに とか答候へきやその時御あらかひも理運をひらか せ給ふへけれと申けれはけにもとよろこひ給へり すてにかの日にのそみしかは人々この由をつたへ ききてしやんとのはてをみんとてうみの辺にき せんくんしゆをなすそのときしやんと高所にはし りあかりかのあひてをまねきよせいそほのをし へけることく仰けれはあひて一言の返答におよはす あまつさへしやんとを師匠とあかめ奉りけり/1-13r