巻4第10話(33) 京にある女房の女に後れて道心発す事
校訂本文
画かき華結びなんどすること無類にして、わが子なむども覚えず。「古(いにしへ)の楊貴妃・李夫人の児と申す顔ふし、蓮(はちす)のまなじりも、わが子にはまさらじ」と思ふ。上(うへ)よりもかく聞こし召して召す。十三と申すに参る。
思はざるほかに十六と申すに、病(やまふ)の床(ゆか)に臥しぬ。ただすらの子ならむだにも悲しむべし。むみかへもなき女(むすめ)の病(やまひ)、いかばかり思ひけむ。小野小町・李夫人も病に臥し、西施が形(かたち)も病におかさる。生老病死の人を分かざる習ひ悲しむべし。
目も放たず見るに、やうやく日累(かさな)りて、つひに眼(まなこ)を閉ぢしより後、また忍音(しのびね)もせでやみにしを見し志は、いかばかりかは悲しかりし。「これより先に思ひ立ち、憂き世を背きたらば、かくはあらじ」と思ふ涙にて、月日の光も見えず、葬送にも及ばず、七日まで置きたり。
かくてもあるまじければ、すでに葬せむとするに、せめての悲しさに、「今一度(ひとたび)見ん」と思ひて、ひそかに棺を開けて見れば、長くみどしり髪は、まろがりて枕のかたに抜けて落ちたり。「拘拏羅(くなら)太子の御眼(まなこ)も、かくやをはしけむ」と見えしかども、開(あ)くことなかりし。眼は木の節の抜けたるやうにて、おほきにこもれありたり。鼻ばしらは倒(たう)れて、穴のみぞ二つ、うそうそとして開きたる。唇(くちびる)は青びれて、紙のごとくうすうすとなりたる。葉のみこそは、上下(かみしも)もとのごとくに見えしが、白くめでたかりし色つはは、黄ばみ黒みて、そのものとも見えず。臭く堪へがたくして、鼻おさへたれども、目より耳より入るやうに覚えて、むせびかへりしかば、おしふたぎて退(の)き侍りにき。
三千の寵愛にも勝れぬべく見えし形は、一の鬼(き)ぞかし。怖しくうとましきことを、喩(たと)ふべきものなし。わが子の悲しみならずは、なんぞその体を見ん。かくて送り後(のち)も、二・三年涙にむせぶ、云々。
山林の睡眠(すいめん)仏の歓喜
聚落(じゆらく)の精進仏の憂悩(うなう)云々。
翻刻
京ニアル女房ノ女メニ後レテ道心発ス事 画カキ華ムスビナンドスル事無類ニシテ我子ナムドモヲホヘス古ノ 楊貴妃李夫人ノ児ト申カヲフシ蓮ノマナシリモ我子ニハマサ ラシト思フ上ヨリモカク聞召シテメス十三ト申ニマイル不思ハ外ニ十六ト 申ニ病ノ床ニ臥シヌタタスラノ子ナラムタニモ可悲シムミカヘモナキ女ノ 病ヒ何計リ思ヒケム小野小町李夫人モ病ニ臥シ西施カ形モ/2-38l
https://dl.ndl.go.jp/pid/13384727/1/38
病ニヲカサル生老病死ノ人ヲワカサル習可シ悲ム目モハナタスミルニ 漸日累テ遂ニ眼ヲ閉シヨリ後又忍音モセテヤミニシヲ見シ 志ハ何計リカハ悲シカリシコレヨリ先ニ思立憂世ヲ背キタラハカクハ アラジト思フ涙ニテ月日ノ光モミエス葬送ニモ不及バ七日マテ ヲキタリカクテモアルマシケレハステニ葬セムトスルニセメテノ悲サニ 今一度見ント思テヒソカニ棺ヲアケテミレハ長クミトシリ髪ハ マロカリテ枕ノカタニヌケテヲチタリクナラ太子ノ御マナコモ カクヤヲハシケムトミエシカトモアク事ナカリシ眼ハ木ノフシノヌケ タルヤウニテヲホキニコモレアリタリハナハシラハタフレテアナノミソ 二ツウソウソトシテアキタルクチヒルハアヲヒレテ紙ノコトクウスウス トナリタルハノミコソハ上ミ下モ本ノ如ニ見ヘシカ白クメテタカリシ色 ツハハ黄ハミ黒ミテ其ノ物トモミエスクサクタヘカタクシテ鼻ヲサヘ/2-39r
タレトモ目ヨリ耳ヨリ入様ニヲホヘテムセビカヘリシカハヲシフタキ テノキ侍リニキ三千ノ寵愛ニモ勝レヌヘク見エシ形ハ一ノ鬼ソカシヲ ソロシクウトマシキ事ヲタトフヘキ物ナシ我子ノ悲ナラスハ何ソ其ノ 体ヲミンカクテ送リ後モ二三年涙ニムセブ云云 山林睡眠仏歓喜 聚落精進仏憂悩云云/2-39l
