巻4第4話(27) 運心供養の事
校訂本文
山1)に、弟子門徒多き房主(ばうじゆ)ありけり。弟子とも列座して、空腹の雑 談(ざふたん)しけるが、「近江の湖(みづうみ)2)に猫掻(ねこがき)を敷き満てて、上に土をもちて田作りたらむに、数千町あるべし」とて、弟子に分かち取らせてけり。おぼえの弟子には多く思ひ当てけり。その中に、不得心の弟子の、房主の気色(けしき)悪(わろ)かりけるに、「あの僧には、田一段取らせむ」と云ひけるを聞きて、「このほどに人数にも思し召されず候ひける。面目なく候ふ」とて、座を立ちて修行に出でにけり。
この僧が心をもて、返(かへ)て思へば、多く得たる僧ども、心悦びつらむ。仏の真身(しんじん)は無相・無念なり。応身(おうじん)はただ常の人の心なり。顕密の中に運心供養(うんしんくやう)と云ふは、梵音(ぼんおん)にも「十方所有の妙華(めうげ)を供養す」と見えたり。
密教の中に、ことに世界の香華(かうげ)・灯明・宝物等の供養物(くやうもつ)、印明観念(いんみやうくわんねん)をもて仏に供養す。うち思ふところは、いたづらごと、まことなしと覚え侍るに、その徳まことに大なるべし。
仏の金言、御遺戒(ごゆいかい)なり。いかがいたづらに益(やく)なからむことを説き置き給ふべき。瑜伽論は弥勒3)の説なり。功少なくして徳多きことを訓(をし)へ給へるには、「地獄の苦にも代らばや」と思ひ、「貧賤・孤独の者に財宝与へばや」と思ふ。このことまことはなけれども、心の底にその徳大きなり。苦もなし、賤しきも失せねども、心(しん)は諸法の源(みなもと)なるゆゑに、色形(しきぎやう)なしと云へども、識(しき)に薫じて、自然(しねん)として縁起することあるべし。反(かへ)て思へば、「人を損じ害せばや」と思ふ心、彼がまことに苦を受くることなけれども、わが心すでに罪業を薫(くん)ず。大悪たるべし。
このこと、思ひ解かねば、観行の法にも益薄く、悪念の業をも慎(つつし)まじ。もつとも用意すべきことなり。これ愚痴(くち)の皃(かたち)なり。六根の供養に、華は眼(まなこ)、声は耳、香(かう)は鼻、食(じき)は舌、衣(ころも)は身、悦ばしきことは心の供養なり。運心の供養たること、もつとも然るべきことなり。六根の中(うち)には、意(こころ)これ主(しゆ/あるじ)なり。もつともしかるべきなり。
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運心供養ノ事 山ニ弟子門徒多キ房主有リケリ弟子トモ列坐シテ空腹ノ雑 談シケルカ近江ノ湖ニ猫カキヲシキ満テテ上ニ土ヲモチテ田作タ ラムニ数千町アルヘシトテ弟子ニ分チトラセテケリヲホヘノ弟 子ニハ多ク思ヒアテケリ其中ニ不得心ノ弟子ノ房主ノ気色ワロ カリケルニアノ僧ニハ田一段トラセムト云ケルヲ聞テ此程ニ人/2-30r
数ニモヲホシメサレス候ケル面目ナク候トテ座ヲ立テ修行ニ出ニ ケリ此ノ僧カ心ヲモテ返テ思ヘハ多ク得タル僧トモ心悦ヒツラム 仏ノ真身ハ無相無念也応身ハタダ常ノ人ノ心也顕密ノ中ニ 運心供養ト云ハ梵音ニモ十方所有ノ妙華ヲ供養スト見エタリ 密教ノ中ニコトニ世界ノ香華灯明宝物等ノ供養物印明観 念ヲモテ仏ニ供養スウチ思フ所ハ徒ラ事実ト無シトヲホヘ侍ルニ 其徳実ニ大ナルヘシ仏ノ金言御遺戒也イカカ徒ニ益ナカラム 事ヲ説ヲキ給フヘキ瑜伽論ハ弥勒ノ説也功少クシテ徳多キ 事ヲ訓ヘ給ヘルニハ地獄ノ苦ニモ代ラハヤト思ヒ貧賤孤独ノ者ニ 財宝与ヘハヤト思フコノ事マコトハナケレトモ心ノ底ニ其徳大キ也 苦モナシ賤キモ失セネトモ心ハ諸法ノ源ナル故ニ色形ナシト云ヘトモ 識ニ薫シテ自然トシテ縁起スル事有ルヘシ反テ思ヘハ人ヲ損シ害セハ/2-30l
https://dl.ndl.go.jp/pid/13384727/1/30
ヤト思フ心彼カマコトニ苦ヲウクル事ナケレトモ我カ心ステニ罪業ヲ 薫ス大悪タルヘシ此ノ事思トカネハ観行ノ法ニモ益ウスク悪念ノ 業ヲモツツシマシ尤モ可用意事也コレ愚痴ノ皃也六根供養ニ 華ハ眼声ハ耳香ハ鼻食ハ舌衣ハ身悦ハシキ事ハ心ノ供養也運 心ノ供養タル事尤モ可キ然ル事ナリ六根ノ中ニハ意コレ主也尤モ可然ル事也/2-31r
