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text:zotanshu:zotan03-02

雑談集

巻3第2話(20) 人の母子を念(おも)ふ事

校訂本文

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山僧(さんそう)1)の学生(がくしやう)、説経師(せつきやうじ)なるありけり。山にて仏事あるに、唱導して、母の子を思ふことかたくななること申し立てて、すなはち、「愚僧が母、京(きやう)に候ふに、申すべきことありて、出京して侍りしが、させることあて、雪の中に登山つかまつしほどに、雪風おびたたしく侍りしままに、西坂本より京へ皈(かへ)り侍りしが、さるほどに雪はやみぬ。四条の橋に、女房の女童(めらう)具して西へ行きしを、『いかなる人にや』と見るほどに、母にて候ひける。『あらうれしや。御坊のこの雪風に、『いかなるあやまちもやあるらん』と思ひて、家にも居られずして、山の方(かた)をも見て、『心なぐさめん』と思ひたれば、別事なかりける』とて、あひ具して皈りて、見上げ見下し、とかくいたはりて、『山に御坊ほどの見目よき僧、何人ばかりある』と問ひて侍りし。御覧候へ。これほどに(悪わろ)く候ふ面(かほ)を。人の親のかたくななる心、かやうに申して候ひし」とて、礼盤(らいばん)に居ながら、あちこちねぢむきて人に見えけり。面(かほ)を見ては笑ふ人あり、母の心を感じては泣く人もありけり。まのあたり聴聞したる山僧の物語なり。

宇都宮の紀の党にて、ヲトツラの新左衛門尉と申ししは、聞こへたる勢兵(せいびやう)なり。矢は十三束三伏なり。やつみて侍りし。その母、縁に付きて、常州のある入道とあひ住み侍りけるが、山臥修行者の、「何ににても給はり候はん」と云ふを、入道あひしらひて、「いづくよりおはするぞ」と云ふに、「京(みやこ)の方より」と答えけり。尼公聞きて、「あれ体(てい)の修行者は、恐しき強盗なんどもあるに2)、あひしらひ給ふ」とて、ふしふしと腹立ちけれども、入道呼び入れて、京の方のこと問ひければ、「宇都の宮殿、大番に上洛(しやうらく)し、四ノ宮河原にて見物して候ひしヲトツラの新左衛門尉とかや申し候ひし大矢、人がらもよく候ひし。人々目を驚かして讃め沙汰し候ひし」と云ふ時、尼公心地よろこばしくして、「あの御房に僧膳よくして参らせよ。御酒参らせよ」と下知して、帷(かたびら)一つ取らせけり。近く侍りしままに、たしかに聞きしことなり。かの入道は知る人なり。いかなる孝養の子も、親を讃めんに、これほどに悦ぶことあらじ。

獣までも母の子を思ふこと、漢土に鄧隠峯と云ふ禅師ありけり。在俗の時、猿の母子、木に並びてあるを、子を射落したりければ、子、死にけり。母、やがて続きて落ちて死にけり。母が腹をひらきて見るに、腸(はらわた)寸々(ずだずだ)に切れたり。子を悲しむ心切(せつ)にして、腸の切れたるなるべし。これを見て、弓矢を折り棄て、出家して貴(たと)き禅師となりけり。「悪すなはち善の資なり」と云ひて、悪事善縁となることこれあるゆゑなり。

法宗上人と云ひけるも、孕みたる鹿の腹を射裂きたりければ、子の落ちたるを、矢をふくみ疵をかぶりながら子を舐(ねぶ)りけるを見て、発心して、弓矢を折りて出家して、法華の行者、貴き上人となれり3)。唐の法華伝4)に見えたり。

およそ親子の因縁、孝経等にも教へ、仏教の中にも多し。心地観経の報恩品に細かに説かれたり。父母の恩を知る下地なきは、三宝の恩知るべからず。現世の恩を知れば、まづ現世安穏なり。これなほ報ずべし。いかにいはんや、釈尊の本師として、久遠(くをん)より娑婆(しやば)に住して和光同塵(わくわうどうぢん)し、利益(りやく)し給ふ恩をや。弥陀の浄土を構へて来迎(らいがう)し養育し給ふ恩、父母の恩にすぐれたること、喩ふべきにあらず。

もしこの恩を思ひて、如説に行ぜば、後生善処たのみあり。この二事欠けなば、二世不得の身として、現世には冥加なき者にて、後世に悪趣に堕つべし。心あらん人、知恩報恩の行、懈怠(けだい)すべからず。内に仏性(ぶつしやう)あれば、外(ほか)に勝縁(しようえん)あり。誰(たれ)かこれを思はざらんや。この心なからん、人木石畜類にもなほ劣れり。

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  人ノ母念フ子ヲ事
○山僧ノ学生説経師ナル有ケリ山ニテ仏事有ルニ唱導シテ
母ノ思フ子ヲ事カタクナナル事申シ立テ即愚僧カ母京ニ候ニ可
申ス事有テ出京シテ侍シカ指セル事アテ雪ノ中ニ登山仕シ程ニ雪風ヲ
ビタタシク侍シママニ西坂本ヨリ京ヘ皈リ侍シカ去ル程ニ雪ハヤミヌ
四条ノ橋ニ女房ノ女童グシテ西エ行シヲイカナル人ニヤト見程ニ
母ニテ候ケルアラウレシヤ御坊ノ此ノ雪風ニイカナルアヤマチモヤアル
ラント思テ家ニモ居ラレスシテ山ノ方ヲモミテ心ナクサメント思ヒ
タレハ別事ナカリケルトテ相具シテ皈テ見アゲ見ヲロシトカク
イタワリテ山ニ御坊ホドノミメヨキ僧何人バカリ有ト問テ侍シ
御覧候ヘ是レ程ニワロク候面ヲ人ノ親ノカタクナナル心カヤウニ/2-7l

https://dl.ndl.go.jp/pid/13384727/1/7

申テ候ヒシトテ礼盤ニ居ナガラアチコチネヂムキテ人ニ見エ
ケリ面ヲ見テハ笑人有リ母ノ心ヲ感シテハ泣ク人モ有ケリマノアタリ
聴聞シタル山僧ノ物語リ也  ○宇都宮ノ紀ノ党ニテヲト
ツラノ新左衛門尉ト申シハ聞ヘタル勢兵也矢ハ十三束三伏
也ヤツミテ侍シ其ノ母縁ニ付テ常州ノ或入道トアヒスミ侍リ
ケルカ山臥修行者ノ何ニニテモ給ハリ候ント云ヲ入道アヒシラヒテ
イヅクヨリヲワスルソト云ニ京ノ方ヨリト答ヘケリ尼公聞テアレ
体ノ修行者ハヲソロシキ強盗ナンドモアルニトアヒシラヒ給フトテ
フシフシトハラタチケレトモ入道呼入レテ京ノ方ノ事問ケレハ宇
都ノ宮殿大番ニ上洛シ四ノ宮河原ニテ見物シテ候シヲトツラノ
新左衛門尉トカヤ申候シ大矢人ガラモヨク候シ人々目ヲ
驚カシテホメサタシ候シト云時尼公心地ヨロコバシクシテアノ御房ニ/2-8r
僧膳ヨクシテマヒラセヨ御酒マヒラセヨト下知シテ帷一トラセ
ケリ近ク侍シママニタシカニ聞シ事也彼ノ入道ハ知ル人也イカ
ナル孝養ノ子モ親ヲホメンニ是程ニ悦ブ事アラシ獣マテモ母ノ
子ヲ思フ事漢土ニ鄧隠峯ト云禅師有ケリ在俗ノ時猿ノ母
子木ニナラビテアルヲ子ヲ射ヲトシタリケレハ子死ニケリ母ヤガテ
ツツキテ落テ死ニケリ母カ腹ヲヒラキテ見ルニ腸寸々ニ切レタリ
子ヲカナシム心切ニシテ腸ノ切タルナルヘシ是ヲ見テ弓矢ヲ折
棄テ出家シテ貴禅師トナリケリ悪即チ善ノ資ケ成ト云テ悪事
善縁トナル事コレ有ル故也  ○法宗上人ト云ケルモ孕
タル鹿ノ腹ヲ射サキタリケレハ子ノ落タルヲ矢ヲフクミ疵ヲカフリ
ナカラ子ヲネフリケルヲ見テ発心シテ弓矢ヲ折テ出家シテ法
華ノ行者貴キ上人トナレリ唐ノ法華伝ニ見タリ凡ソ親子ノ/2-8l

https://dl.ndl.go.jp/pid/13384727/1/8

因縁孝経等ニモヲシエ仏教ノ中ニモ多シ心地観経ノ報恩品ニ
コマカニ説カレタリ父母ノ恩ヲ知ル下地無キハ三宝ノ恩知ルベカラズ
現世ノ恩ヲ知レハマツ現世安穏也コレナヲ可報ス何況釈尊ノ
本師トシテ久遠ヨリ娑婆ニ住シテ和光同塵シ利益シ給フ恩ヲヤ
弥陀ノ浄土ヲ構テ来迎シ養育シ給フ恩父母ノ恩ニスグレタル
事可キニ喩フアラス若シ此恩ヲ思ヒテ如説ニ行セハ後生善処タノミ
有リ此ノ二事闕ケナハ二世不得ノ身トシテ現世ニハ無キ冥加者ニテ
後世ニ可シ堕ツ悪趣ニ有ン心人知恩報恩ノ行不可懈怠ス内ニ有ハ仏
性外ニ有勝縁タレカ是ヲ思サランヤ此ノ心ナカラン人木石畜
類ニモ猶ヲヲトレリ/2-9r

https://dl.ndl.go.jp/pid/13384727/1/9

1)
比叡山延暦寺の僧
2)
底本「アルニ、ト」。「ト」の衍字とみて削除。
4)
法華伝記
text/zotanshu/zotan03-02.txt · 最終更新: by Satoshi Nakagawa