巻1第12話(12) 凡聖不二の事
校訂本文
経1)に云はく、「法性(ほつしやう)は大海のごとく、是非有りと説かず。凡夫(ぼんぶ)・賢聖(けんせい)の人、平等にして高下無し。ただ心垢(しんく)の滅に在り。証を取ること掌(たなごころ)を反すがごとし。云々」。これ明文なり。この文によりて、平等の義を得意(こころう)べし。
性の平等の義は、疑ふべからず。相は迷悟(めいご)・苦楽(くらく)はるかに隔てたり。平等の義有るか無きか。このこと、私にいささか料簡(れうけん)することあり。法性動じて万法と成る。水動て波と成るがごとし。しかるに、万法となるといへども、如法の中に湿性失せず。相用の上にも平等の義あるべし。しばらく凡夫僧・聖僧ないし三世の諸仏に平等の義あるべし。
このことを思ふに、釈尊、化縁尽きて、御入滅あるべきよし、もし在世益あるべくは、何をもつて入滅し給はむ。同体の大悲、衆生を捨つべからず。あるいは地蔵、あるいは十六羅漢等、在世と釈尊と、全く別くべからず。これによりて化儀を御弟子に譲り、すでにもつて御入滅す。されば地蔵・羅漢は釈尊と全く同じ。また、羅漢も地蔵も、われら分明にこれを見奉らず。これ罪障(ざいしやう)の深きゆゑか。されば、今、凡夫僧また地蔵・羅漢等と代はりて、当代の凡俗の師なり。
法華2)に、「末代に法華を読誦し、解説せむ僧を毀呰(きし/そしりのる)するは、仏を毀(そし)るよりもその罪重く、信敬(しんきやう)し供養するは、その徳仏を敬ふより重し」と説き給へり。正直捨方便の説、まことに疑ふべからず。
されば、当時の僧も毀(そし)れば、仏を毀るかごとし。なほ罪深し。信敬すれば、当時も益あり。愚僧、智も無く、慈も無し。しかるに、多年菩薩戒を授け、神呪を誦すれば、重病除癒(じよゆ)し、寿命安穏なる檀那(だんな)・知音(ちいん)多し。
されば、釈尊も信ぜざる人には益無し。入涅槃の時、御入滅を喜ぶ僧これあり。後分(ごぶん)3)に見えたり。かかれば、われら凡僧、釈尊と全く同じ。形像にはあやまて、おそれながら勝(すぐ)れたる方あり。当時の形像は無言説、われらは説法利生す。ただし、形像は食し給はず。われらはまさなし。これは劣れり。合はせて、これ凡聖無高下の説をあひはからへり。
また、よくよく案ずれば、草木も仏も全く同じなり。そのゆゑは、仏は無心にして八相作仏(はつそうさぶつ)す。涅槃経の説なり。無心なれども、本誓(ほんぜい)に酬(こた)へて、利益すべきこと、秋毫(しうがう)も差(たが)はず。
在世に、信心深き女人、病僧のために、わが股(もも)の肉を割きて与へし苦痛に逼られ、「南無仏、南無仏」と唱ふ。釈尊来臨して、薬を付け法を説きたまへば、すなはち苦痛息(や)みて、菩提心を発(おこ)し、後(のち)仏所に詣して、このこと悦び申すに、仏、答へて云はく、「われ往(ゆ)かず、薬を付けず、法を説かず。ただ、わが慈善根の力、かくのごときことを見る」。4)
このことをもつてこれを思ふに、草木の時により、花の開き、菓(こにみ)結ぶ。心無しといへども、時節を失はず。人を救ひ世を益すること、草木また仏と平等なる。凡聖無高下、いよいよその理を得る。
論に云はく、「法界の体性、差別無し。森羅万象(しんらまんざう)すなはち仏身。この外も世間の貧富・貴賤も、よくよく思ひ解かば、苦楽憂喜(くらくうき)平等なるべきか。そのゆゑは、富貴の家は、衣食什物(えじきじふもつ)豊かなるままに、常に飽満(はうまん)して、美食も気味(きみ)なし。財宝も喜びなし。貧賤の家、少分の衣食、心悦身の楽みも、空腹一杯の粥、富貴の美食に勝(すぐ)れたり。されば、物々善悪は境縁これなし。ただ心にこれあり。貧家の麁食(そじき)、富貴の美食に勝れたり。このゆゑに、貧富苦楽また平等なるべし。
かくのごときこと、よく思ひ解けば、事の上平等の義、顕然なり。何ぞ必ずしも、性の処のみ平等ならん。かくのごときならば、涅槃5)に説き給へるごとく、功徳・黒闇常に随ふ。憂愁歓楽異あるべからざるや。富貴の家は、富むとも事多く労滋(しげ)くして、心心ならず。しかも久しく家国を保たず。貧賤の家は、寿長くして心安し。富めれども久からず、寿長けれとも冨まざれば、これまた平等なり。事上の平等、よくよく心を静かにして案ずるに、義理違(い)すべからざる者か。事理不二(じりふに)は仏法の志趣(ししゆ)なり。
翻刻
凡聖不二ノ事 経ニ云ク法性ハ如大海ノ不説有ト是非凡夫賢聖ノ人平等ニシテ無高 下唯タ在リ心垢ノ滅ニ取コト証ヲ如反スカ掌ヲ云々此レ明文也依テ此ノ文ニ平 等ノ義ヲ可得意性ノ平等ノ義ハ不可疑フ相ハ迷悟苦楽天カニ 隔テタリ平等ノ義有カ哉無カ哉此ノ事私ニ聊カ料簡スル事有リ 法性動シテ成万法ト如水動テ成ルカ波ト然ルニ雖成ト万法ト如法ノ中ニ 湿性不失セ相用ノ上ニモ可有平等ノ義且ク凡夫僧聖僧乃至 三世ノ諸仏ニ可有平等ノ義此ノ事ヲ思フニ釈尊化縁尽テ御入滅 可有由シ若シ在世可ハ有益何ヲ以テ入滅シ給ハム同体ノ大悲不 可捨衆生ヲ或ハ地蔵或ハ十六羅漢等在世ト與釈尊全ク不可 別依テ之ニ化儀ヲ譲御弟子ニ已ニ以テ御入滅サレハ地蔵羅漢ハ 釈尊ト全ク同シ又羅漢モ地蔵モ我等分明ニ不奉見之ヲ是レ/1-21l
https://dl.ndl.go.jp/pid/13384726/1/21
罪障ノ深キ故カ歟サレハ今マ凡夫僧又地蔵羅漢等ト代テ 当代ノ凡俗ノ師也法華ニ末代ニ法華ヲ読誦シ解説セム僧ヲ 毀呰スルハ仏ヲ毀ルヨリモ其ノ罪重ク信敬シ供養スルハ其ノ徳仏ヲ敬フヨリ 重シト説キ給ヘリ正直捨方便ノ説誠トニ不可疑フサレハ当時ノ僧モ 毀レハ如毀ルカ仏ヲ猶罪ミ深シ信敬スレハ当時モ有益愚僧無智モ 無慈モ然ルニ多年授ケ菩薩戒ヲ誦スレハ神呪ヲ重病除癒シ寿命安 穏ナル檀那知音多シサレハ釈尊モ不ル信人ニハ無益入涅槃時 御入滅ヲ喜ブ僧有之後分ニ見ヘタリカカレハ我等凡僧釈尊ト 全ク同シ形像ニハアヤマテヲソレナカラ勝タル方有リ当時ノ 形像ハ無言説我等ハ説法利生ス但シ形像ハ食シ給ハス我等ハ マサナシコレハヲトレリ合テ是レ凡聖無高下ノ説ヲ相計ヘリ又タ 能ク々案スレハ草木モ仏モ全ク同シ也其ノ故ハ仏ハ無心ニシテ八相/1-22r
作仏ス涅槃経ノ説也無心ナレトモ本誓ニ酬テ可利益ス事 秋毫モ不差ハ在世ニ信心深キ女人為メニ病僧ノ我カ股ノ肉ヲ割テ 与ヘシ苦痛ニ所逼ラ唱フ南無仏々々々ヲ釈尊来臨シテ付ケ薬ヲ説玉ヘハ法ヲ即チ 苦痛息テ発シ菩提心ヲ後詣シテ仏所ニ此ノ事悦ヒ申スニ仏答テ云我レ 不往カ薬ヲ不付法ヲ不説カ只我慈善根力ヲ見ル如ノ此事以テ此ノ事ヲ 思之草木ノ依時ニ花ノ開キ菓結フ雖モ無シト心不失時節ヲ救クヒ人ヲ益スル 世ヲ事草木亦與仏平等ナル凡聖無高下弥得其ノ理論ニ云 法界ノ体性無差別森羅万象即チ仏身此外モ世間ノ貧富 貴賤モ能ク々思ヒ解ハ苦楽憂喜可キ平等ナル歟其ノ故ハ冨貴ノ家ハ衣 食什物豊ナルママニ常ニ飽満シテ美食モ無気味財宝モ無喜ヒ 貧賤ノ家少分ノ衣食心悦身ノ楽モ空腹一杯ノ粥冨貴ノ美 食ニ勝タリサレハ物々善悪ハ境縁無之只心ニ有之貧家ノ/1-22l
https://dl.ndl.go.jp/pid/13384726/1/22
麁食冨貴ノ美食ニ勝タリ是故貧冨苦楽亦可シ平等ナル如此 事能ク思ヒ解ケハ事ノ上ヘ平等ノ義顕然也何必シモ性ノ処ノミ平 等ナラン如此ナラハ如涅槃ニ説玉ヘル功徳黒闇常ニ随フ憂愁歓 楽不可有異歟冨貴ノ家ハ冨トモ事多ク労滋シテ心不心 然モ久ク不保家国ヲ貧賤ノ家ハ寿長クシテ心安シ冨レトモ不久カラ 寿長レトモ不冨サレハ是レ又平等也事上ノ平等能ク々心ヲ静ニシテ 案スルニ義理不可違ス者ノ歟事理不二ハ仏法ノ志趣也/1-23r
