沙石集
巻5第22話(58) 連歌の事
校訂本文
鎌倉の極楽寺に、ある僧夢に見る。文殊1)、「連歌したる。付けよ」とて、
いざ帰りなんもとの都へ
僧ども、多く付けける。少々所々忘れ侍り。
慈済律師(賢明房)
思ひ立つ心の外(ほか)に道もなし
この句、殊勝なり。一行の疏の心かなへり。大日経2)の疏にいはく、「即心是道、何衆生迷哉(即身これ道、何ぞ衆生迷へる哉)」。取意3)。譬へをもつていはく、「無智の画師、鬼形を画きて、畏れて悶絶す。また、蚕の口より糸を出だして苦を受くに似たり」と言へり。即心道なれども、迷ふ時はわが心に惑ひ、悟る時はわが心を悟る。法界はただ一霊真如なり。何ぞ法に二つあらんや。法華4)にいはく、「只斯一事実。餘二則非真。(ただこの一事のみ実なり。余の二つは則ち真にあらず。)」云々。
東(とう)の入道5)、病の床に臥して、日久し。頼みなく思えければ、日ごろ遊びなれたる歌仙呼びて、最後の会と思ひて、月の夜、病床に臥しながら、亭主、
あれはげに今いくたびか月を見ん
発句には禁忌に思えて、人々付け煩ひたりけるに、簾中に、
たとへば長き命なりとも
この句のあまりにおもしろさに、心地よろしくなりて、そのたびは助かりたりけり。妹の若狭の局の句なり。
かの入道、そのかみ毘沙門堂の連歌の座にありけるが、
うす紅になれる空かな
といふ句、難句にて、多くかへりて興もなかりけるに、
あま飛ぶやいなおふせ鳥のかげ見えて
花下の十念房ありけるが、「あま飛ぶや」とうち出でたりければ、「あは、付き候ひぬるは」と、心はや言ひけるとなん。
また、阿弥陀仏連歌のありけるに、
名乗りて出づるほととぎすかな
といふ句に、
武士(もののふ)のたてを並ぶるとなみ山
また、東(あづま)にて連歌しけるに、ある6)句に、
饌所(ぜぜ)の雑仕も赤裳をぞ着る
といふ句に、
大海老のからむきおける中にゐて
これを感じて、とどめてけり。「その座にありける」と言ふ入道、語り侍りし。
大和の桃尾の山寺に、弁の阿闍梨と聞こえし真言師、長谷7)へ参詣の道に、釜口の山寺に、紅葉の盛りなるを見て、供に具したる小法師、主の馬の口に取り付きて、
釜の口こがれて見ゆる紅葉かな
やむごとなくて付けける
なべての世にはあらじとぞ思ふ
この句、よろしからず。何かあらしと聞こえず。また、釜にはあひしらひあり、紅葉(もみぢ)のあひしらひなし。
昔、筑紫の釜戸山にて、ある人の句に、
春はもえ秋はこがるるかまど山
これを付く
霞も霧も煙とぞ見る
これには付け劣りたり。
先年、海道を通り侍りしに、富士の山に雲の立ちめぐりて見えしを、供に具して侍りし小法師、
富士の山雲の袴を着たるかな
これもやむことなくて付け侍りし。
雪の帷(かたびら)うちかつぎつつ
させる秀句ならねども、書き付くなり。
蜂の八つ見えしを、ある人に、
八あればこそはちといふらめ
これを付く、
二十居(はたちゐ)ばはたをりにてぞ8)あるべきに
また、ある人、これを付く。
四十雀(しじふから)こそ鳥の数なれ
ある人の句に。
竹のあなたに鳥の鳴くなり
是をつく
ふしながら夜は明けぬると知られけり
また、ある人の句
よひよひにもちひみそうづいとなみて
これを付く
軒のたちばなもとつばもなし
させる句ならねども、書き付け侍り。写し給ふべからず。
宇都宮にて、連歌ありけるに、
親若くして子は老いにけり
といふ句、難句なりけるに、明覚房
わが宿のそともに植ゑし三年竹(みとせだけ)
歌人、播磨房、感じて落涙しけると言へり。
鎌倉にて連歌ありける座に、
船の中にて老いにけるかな
といふ句に、或人9)、
浮草のかけひの水に流れきて
人々、感じけり。
東福寺僧の中の連歌に
波にかたぶく弓張の月
ある人
大魚を射るかと人や思ふらん
故鎌倉右大将10)家の狩の時、狐の野に走りけるを、
しらけて見ゆる昼狐(ひるぎつね)かな
とのたまひて、「梶原11)、付けよ」と仰せければ、
契りあらば夜こそこうと言ふべきに
奥入の時、名取川にて、
頼朝が今日の軍に名取川
と仰せられて、「梶原、付けよ」とありければ、
君もろともにかち渡りせん
南都の興福寺に、常に寄り合ひて、連歌などする寺僧、四人ありけり。人、これを四天王と名付く。ある時の連歌に、
われらをば四天王とぞ人はいふ
ある僧、これに付く。
ただし毘沙門なしとこそ見れ12)
中古に、東大寺に、何者かしたりけるやらん、立札に、
東大寺最第一の寺なれや
立札にこれを付く。
南京にこそ北と言ひたれ
また立つ
歌詞に北といふこと聞きなれず
また立つ
「万葉集にいはく、山臥の腰に付けたる法螺の貝、岩尾の上にほとと落ち、ちやうと割れ砕けてものを思ふころかな」。これはいかにと。
万葉がかりの歌のこと。中古に常州田中の庄といふ所に、高観房といふ山臥ありけり。隣家に藤追といふ百姓か妻に、忍び忍び寄り逢ひける。また山臥の種つかんと思ひけるにや。
このこと自然に漏り聞こえて、口惜く思ひけれども、かつは師檀の儀也、熊野の先達などする名人なれば、「恥ぢがましきこと与へんも、しかるべからず」と思ひて、熊野へ参詣の時、妻うち具して、奥州の千福といふ所に、ゆかりたる者のありけるを尋ねて、下りにけり。
下向にやがてかの家を見れば、逃亡して人なし。あさましく思ひて、人に問へども、もとより 行方を隠してければ、人これを知らず。さて寝屋(ねや)のほとりを見れば、柱に妻が手にて、歌を書き付けたりけり。
恋しくば問ひてもわせよ高観房千福にあるそ藤四郎のもとに
これを見て、あはれにわりなく思ひて、かれが見るべきにあらねども、「心の行くかた返事せん」と思ひて、書き付けける。
出てゆかばかくとも言はでうたてやな藤追の女房の千福の藤四郎のもとも我したらばこそあらめ
心ざしはさりぬべし。歌はまことにをかしし。万葉の代ならば、これも集に入るべくや。
長明13)は、俊頼14)の子息、俊慧法師15)が歌の弟子なり、俊慧問ひていはく、「良少将16)出家の時、
たらちねはかかれとてしもうばたまのわが黒髪をなてずやありけん
と詠める。この歌には、いづれ言葉が肝心に思ゆる」と問ふに、長明がいはく、「『とてしも』こそ肝要と思ゆれ」と言ひければ、「すでに境に入れり」と讃めたり。
これになずらふるに、赤染17)が歌18)には、「さても」肝心なり。子に問ひたく、よろづの心ざし、ただ「さても」の中にあり。「とてしも」の言葉も、よろづの心ざし、この四字にあるをや。
長明がいはく、「忠胤僧都の説法に、浄蔵浄眼の十八変を、経には『或現大身、満虚空中、而復現小』と言へり。このことを言葉をかへて、『大身を現ずる時は、虚空も狭くなり。小身を現ずる時は、芥子の中に隙あり』と。口伝、随分秘事なり。和歌の風情はかかるべし」と言へり19)。
古今20)の序にいはく、「和歌はその根を心地(しんぢ)に付け、その花を詞林に開く」と言へる、この道の口伝、この言葉に尽きたり。
西行法師、修行の時、江口の長者が宿を貸さざりし時、
世の中をいとふまでこそかたからめ仮の宿りを惜しむ君かな
と言ひたりける返事に、
世をいとふ人とし聞けば仮の宿に心とむなと思ふばかりぞ
としたりける心21)、根も花もあり。この心をもて返事に、「世を捨て給へる人と聞けば、かかる所に御心ばしとむな」と思ひてこそ、貸しまいらせね。「さらば、おはしまして泊り給へ」とばし言ひたらば、さしもの撰集にいかが入るべきや。長明が言へること、古今の序、その心得られたり。
平政村(左京権大夫)22)
たかし山夕越え暮れてふもとなる浜名の橋を月に見るかな
近代集に入りて侍るをや。
和歌の陀羅尼に似たること、惣持の道理なり。ただも思ふほど祈念しけんに、感なくして、和歌にめでて利生あり。陀羅尼も常の言葉なれども、ただの言葉に益なし。真言になれば勝利あり。なずらへて知るべし。陀羅尼はなずらふれば、仏の和歌なり。
翻刻
連歌事 鎌倉ノ極楽寺ニアル僧夢ニ見ル文殊連歌シタル付ヨトテ イサカヘリナンモトノ都ヘ 僧共多ク付ケル少々所々忘侍リ 慈済律師(賢明房) 思ヒタツ心ノ外ニ道モナシ 此句殊勝ナリ一行䟽ノ心カナヘリ大日経䟽ニ云ク即心 是道何衆生迷哉(取意)譬ヲ以テ云ク無智画師鬼形ヲ 画テ畏テ悶絶ス又蚕ノ口ヨリ糸ヲ出シテ苦ヲ受ニ似リト云ヘ リ即心道ナレトモ迷時ハ我心ニマトヒ悟ル時ハ我心ヲサトル 法界ハ只一霊真如也何ソ法ニ有二哉法華ニ云只斯一 事実餘二則非真云々/k5-197r
東ノ入道病ノ床ニフシテ日久シ頼ミナク覚ヘケレハ日来アソ ヒナレタル歌仙ヨヒテ最後ノ会ト思テ月夜病床ニフシナカラ 亭主 アレハケニ今イクタヒカ月ヲミン 発句ニハ禁忌ニ覚テ人々付煩ヒタリケルニ簾中ニ タトヘハナカキ命ナリトモ 此句ノアマリニオモシロサニ心チ宜シクナリテソノタヒハタスカリ タリケリ妹ノ若狭ノ局ノ句也 彼入道ソノカミ毘沙門堂ノ連歌ノ座ニ有ケルカ ウス紅ニナレルソラカナト云句難句ニテ多クカヘリテ興モ ナカリケルニ アマトフヤイナオフセ鳥ノカケ見ヘテ/k5-197l
花下ノ十念房アリケルカアマトフヤトウチ出タリケレハアハツキ 候ヌルハト心ハヤイヒケルトナン 又阿弥陀仏連歌ノアリケルニ ナノリテ出ルホトトキスカナト云句ニ 武士ノタテヲナラフルトナミ山 又東ニテ連歌シケルニアレ句ニ 饌所ノ雑仕モ赤裳ヲソキルト云句ニ 大海老ノカラムキヲケル中ニヰテ 是ヲ感シテトトメテケリ其座ニアリケルト云入道語リ侍リシ太 和ノ桃尾ノ山寺ニ弁ノ阿闍梨ト聞シ真言師長谷ヘ参詣 ノ道ニ鑊口ノ山寺ニ紅葉ノ盛リナルヲ見テトモニ具シタル小 法師主ノ馬ノ口ニトリツキテ/k5-198r
カマノ口コカレテミユル紅葉カナ ヤムコトナクテ付ケル ナヘテノ世ニハアラシトソ思フ 此句ヨロシカラスナニカアラシトキコヱス又カマニハアヒシラヒアリ モミチノアヒシラヒナシ 昔筑紫ノ鑊戸山ニテ或人ノ句ニ 春ハモヱ秋ハコカルルカマト山 是ヲツク 霞モ霧モ煙トソミル 是ニハツケヲトリタリ 先年海道ヲトヲリ侍シニ冨士ノ山ニ雲ノ立廻テ見ヘシヲト モニクシテ侍シ小法師 冨士ノ山雲ノハカマヲキタルカナ 是モヤムコトナクテ付侍シ 雪ノ帷打カツキツツ サセル秀句ナラネ共書付也/k5-198l
蜂ノ八ミヱシヲアル人ニ 八アレハコソハチトイフラメ 是ヲツク 廿ヰハハタオモニテソ有ヘキニ 又或人コレヲツク 四十カラコソ鳥ノカスナレ 或人ノ句ニ 竹ノアナタニ鳥ノナクナリ 是ヲツク フシナカラ夜ハ明ヌルト知ラレケリ 又或人ノ句 ヨヒヨヒニモチヰミソウツイトナミテ 是ヲツク 軒ノタチハナモトツハモナシ サセル句ナラネトモ書付侍リ写給ヘカラス 宇都宮ニテ連歌有ケルニ 親ハカクシテ子ハ老ニケリ ト云句難句ナリケルニ/k5-199r
明覚房 我宿ノソトモニウヘシ三年竹 歌人 播磨房感シテ落涙シケルトイヘリ 鎌倉ニテ連歌アリケル座ニ 船ノ中ニテ老ニケルカナ ト云句ニ 或人(古同法也) 浮草ノカケヒノ水ニ流レキテ 人々感シケリ 東福寺僧ノ中ノ連歌ニ 浪ニカタフク弓ハリノ月 或人 大魚ヲイルカト人ヤ思フラン 故鎌倉右大将家ノ狩ノ時狐ノ野ニ走ケルヲ シラケテ見ユル昼キツネカナ トノ給テ梶原付ヨト仰ケ レハ チキリアラハ夜コソコウト云ヘキニ 奥入ノ時名トリ河ニテ 頼朝カ今日ノ軍ニ名トリ河 ト仰ラレテ梶原付ヨト/k5-199l
アリケレハ 君モロトモニカチワタリセン 南都ノ興福寺ニ常ニ寄合テ連歌ナトスル寺僧四人有ケリ 人コレヲ四天王トナツク或時ノ連歌ニ 我等ヲハ四天王トソ人ハイフ 或僧付之 タタシ毘沙門ナシトコソミレ 中古ニ東大寺ニ何物カシタリケルヤラン 立札ニ 東大寺最第一ノテラナレヤ 立札ニ付之 南京ニコソ北ト云タレ 又立 歌詞ニ北ト云事聞ナレス 又立 万葉集ニ云ク 山臥ノ腰ニツケタルホラ ノ貝岩尾ノ上ニホトトオチ丁トワレクタケテ物ヲ思此哉 是ハイカニト 万葉カカリノ歌ノ事/k5-200r
中古ニ常州田中ノ庄ト云所ニ高観房ト云山臥アリケリ隣 家ニ藤追ト云百姓カ妻ニ忍々ヨリアヒケル又山臥ノ種ツ カント思ヒケルニヤ此事自然ニモリ聞テ口惜ク思ケレ共且ハ 師檀ノ儀也熊野ノ先達ナトスル名人ナレハ恥カマシキ事アタ ヘンモ不可然ト思テ熊野ヘ参詣ノ時妻ウチ具シテ奥州ノ千 福ト云所ニユカリタル物ノ有ケルヲ尋テ下リニケリ下向ニ軈 テ彼家ヲ見レハ逃亡シテ人ナシ浅猿ク思テ人ニ問ヘ共本ヨリ 行方ヲカクシテケレハ人是ヲシラスサテネヤノホトリヲ見レハ柱ニ 妻カ手ニテ歌ヲ書付タリケリ 恋シクハ問テモワセヨ高観房千福ニアルソ藤四郎ノ本ニ 是ヲミテ哀ニワリナク思テカレカミルヘキニアラネトモ心ノ行カタ 返事セント思テ書付ケル/k5-200l
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ラハオハシマシテトマリ給ヘトハシイヒタラハサシモノ撰集ニイカカ 入ヘキヤ長明カイヘル事古今ノ序ソノ心ヱラレタリ平政村 (左京権大夫) 高シ山ユフコエ暮テフモトナルハマナノ橋ヲ月ニミルカナ 近代集ニ入テ侍ヲヤ 和歌ノ陀羅尼ニ似タル事惣持ノ道理也タタモ思程祈念 シケンニ感ナクシテ和歌ニメテテ利生アリ陀羅尼モ常ノコトハナ レ共タタノコトハニ益ナシ真言ニナレハ勝利アリ准テ可知陀羅 尼ハナスラフレハ仏ノ和歌也 神護寺 迎接院/k5-202r