沙石集
巻5第13話(49) 神明、歌を感じ人を助け給ふ事
校訂本文
鳥羽の法皇1)の御時、待賢門院2)に小大進といふ女房、召し使はれけり。御衣(おんぞ)の一重失せたりけるに、無号おひて、北野に七日参籠して、起請を書きて、失をまぼるほどに、あやまちて、香水(こうずゐ)の水をうちこぼしてければ、仰せ付けられたる人、「これこそ失(しつ)よ」と申しけるを、「あやまちは世の常のことなり。これをば許し給へ」と、うち泣きて、あながちに申しければ、許してけり。
さて、あまり心憂さに、紅の薄様に書きて、御宝前に奉る。
思ひ出づやなき名立つ身は憂かりきと現人神になりし昔を
その夜、法皇の御夢に、やむごとなき老翁の、束帯にて、御使者給ひて、「めでたきことの侍る。見せ参らせん。われは北野の右近の馬場に候ふ者なり」と仰せられけり。さて、急ぎ御使者あるを、この歌を見て奏しけるほどに、やがて、その日、女院の御所に、敷島といふ雑仕、法師と二人かづきて、獅子舞にして、御衣を持ちて狂ひ参りてけり。
その後、小大進は召されけれども、「日ごろ心悪(わろ)き者に思し召されてこそ、かかる心憂きことも侍る」とて、仁和寺に籠り居て、参らざりけり。
洛陽に貧しくして世を渡る、若き女房ありけり。母と具して八幡3)詣でて、身の貧しきことを祈り申しけるに、娘は歩み疲れて、宵(よひ)より通夜(よもすがら)を、うち臥して休みけり。暁、母、おどろかして、「いかにや、さしも思ひ立ちて詣でたるに、思ふこともよくよく祈り申し給へかし。心やすくもうちとけて休み給ふものかな」と言ひければ、返事に、
身の憂さはなかなかなにと石清水(いはしみず)思ふ心はくみて知るらん
下向の時、道にて時めきたる殿上人見あひて、車に乗せておはしけり。神の御利生なれば、今世後世頼もしくこそ。
小式部内侍、病重くして、心弱く思えける時、母を見て、声の下に、
いかにせん行くべき方もおぼほえず親に先立つ道を知らねば
天井に感ずる声ありて、病癒えにけり。神明の御助けにこそ。
大江の挙周4)、病重くして、頼みなかりけり。住吉5)の御たたりなりければ、母、赤染の衛門6)、おこたり申して、「わが命を召して、彼をば助け給へ」と祈り申して、幣(みてぐら)に書きて、御社に奉る。
かはらんと祈る命は惜しからでさても別れんことぞ悲しき
その夜、白髪の老翁、この幣を取るとうち笑むと夢に見て、病癒えにけり。
翻刻
沙石集巻第五 下 神明歌感人助給事 鳥羽ノ法皇ノ御時待賢門院ニ小大進トイフ女房召ツカハ レケリ御衣ノ一重ウセタリケルニ無号オイテ北野ニ七日参籠 シテ起請ヲ書テ失ヲマホルホトニアヤマチテ香水ノ水ヲ打コホシ テケレハ仰付ラレタル人是コソ失ヨト申ケルヲアヤマチハヨノツ ネノ事也是ヲハユルシ給ヘトウチ泣テアナカチニ申ケレハユルシ テケリサテアマリ心ウサニ紅ノ薄様ニ書テ御宝前ニ奉ル 思ヒイツヤナキ名タツ身ハウカリキトアラ人神ニナリシムカ シヲ其夜法皇ノ御夢ニヤム事ナキ老翁ノ束帯ニテ御使者給 テ目出キ事ノ侍ル見セマイラセン我ハ北野ノ右近ノ馬場ニ 候者也ト仰ラレケリサテ急キ御使者有ヲコノ歌ヲ見テ奏シ/k5-179l
ケルホトニヤカテ其日女院ノ御所ニシキシマトイフ雑仕法師 ト二人カツキテ師子舞ニシテ御衣ヲ持テクルヒ参リテケリ其後 小大進ハ召レケレ共日来心ワロキ者被思食テコソカカル心 ウキ事モ侍トテ仁和寺ニ籠リ居テマイラサリケリ 洛陽ニマツシクシテ世ヲ渡ル若キ女房アリケリ母ト具シテ八幡詣 テテ身ノマツシキ事ヲ祈リ申ケルニムスメハアユミツカレテヨヰヨ リ通夜ヲウチフシテヤスミケリ暁母オトロカシテイカニヤサシモオ モヒタチテ詣テタルニ思フコトモヨクヨクイノリ申給ヘカシココロ ヤスクモ打トケテヤスミ給モノカナト云ケレハ返事ニ 身ノウサハ中々ナニト石清水思フココロハクミテシルラン 下向ノ時道ニテ時メキタル殿上人見相テ車ニノセテオハシケ リ神ノ御利生ナレハ今世後世タノモシクコソ/k5-180r
小式部内侍病重クシテ心ヨハク覚ケル時母ヲ見テ声ノ下ニ イカニセンユクヘキ方モオホホエス親ニサキタツ道ヲシラネハ 天井ニ感スルコヱアリテ病イヱニケリ神明ノ御助ニコソ 大江ノ挙周病ヲモクシテタノミナカリケリ住吉ノ御タタリナリケレ ハ母赤染ノ衛門ヲコタリ申テ我カ命ヲメシテ彼ヲハ助ケ給ヘ ト祈リ申テ御テクラニカキテ御社ニタテマツル カハラントイノル命ハオシカラテサテモワカレンコトソカナシキ 其夜白髪ノ老翁此幣ヲトルト打エムト夢ニ見テ病イヘニケリ/k5-180l