醒睡笑 巻5 上戸
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校訂本文
僧云はく、「汝、安きに心を寄するは、奸が致す処なり。性酒を好むに因て、弁ずる義もまた依怙(えこ)たるのみ。長阿含経に、飲酒六失に説く中に、悪名流布の失有り。仏の在世、隣国に悪竜蜿(わだかま)り、ある時は大雨、あるいは大旱1)し、人民を悩乱せしむ。その国の綸髪の梵志、仏所に詣し2)詳に奏す。すなはち娑竭陀比丘3)と云ふ弟子を遣はしむ。すなはち悪竜を降伏す。国民悦びて美酒を酌み4)、酔ひてを失ひ、田畔に睡臥せり。蝦蟆・小蛇、比丘の腹上に在り。仏と舎利弗と通り見て、『自今以後、我弟子必ず飲酒せざらん』と。制法是より起こる。梵網の古迹5)に、『酒者迷乱起罪之本。昔是伏龍之勢、而今不禁蝦蟆。乃至四逆従此而生。又一切聖不飲酒者、以諸聖者具慚愧故、飲令失正念故云々。(酒は迷乱起罪の本なり。昔はこれ伏龍の勢なれども、今は蝦蟆をも禁ぜず。すなはち四逆に至りて此より生ず。又、一切の聖の飲酒せざるは、諸聖は慚愧(ざんき)を具するが故に、飲みて正念を失はしむる故なり)』云々。聖者は恥有り。増して世人の分を過ぐるの酒にとらかされずあらんや」。
俗云いはく、「聞説(きくならく)6)、晋の恵遠は廬山の下に居して持律精苦して、中(ちう)を過ぐれは密湯を受けずして、詩を作りて酒に換へ、陶彭澤7)に飲む。客を送るに、貴賤無く虎渓を過ぎず。廬山記に、『遠師8)送陶元亮陸脩静、不覚過虎渓因相与大笑今世伝三笑図9)(遠師、陶元亮10)・陸修静を送り、覚えず虎渓を過ぐ。因つて相与に大笑す。今の世に三笑図を伝ふ。)』と。禅月11)の作詩に云ふ『愛陶長官酔兀々。送陸道士行遅々。買酒過渓皆破戒。斯何人、斯師如斯。(陶長官を愛し酔ひて兀々(こつこつ)。陸道士を送り行きて遅々。酒を買ひ渓を過ぐるは皆破戒なり。斯れ何人ぞや、斯の師斯の如し。)』と。羅什12)曰はく、『東方当有護法菩薩。勗哉仁者。(東方にまさに護法菩薩有るべし。勖哉たる仁者なり。)』と遠公13)を誉めたり。論に曰く、『遠師有大功。於釈氏猶孔門之孟公焉。(遠師に大功有り。釈氏に於けるは猶ほ孔門の孟公のごとし。)』云々。既に遠師は一宗の元祖、飲酒を破りて虎渓を過ぐ。このことは人口に鱠炙し、これ古今の絶勝なり。
翻刻
真俗共無過僧云汝寄スル安キニ心ヲ者奸カ致処也因テ性好酒ヲ弁スル 義亦依怙タル長阿含経ニ飲酒説六失ニ中ニ有悪名流布失仏 在世隣国ニ悪龍蜿リ或時ハ大雨或大早令ル悩乱人民ヲ其 国綸髪梵志諸シ仏所詳奏ス即娑竭陀比丘ト云弟子ヲ遣シム 輙降伏ス悪竜ヲ国民悦テ訋美酒ヲ酔失正路田畔ニ睡臥セリ蝦蟆 小蛇比丘在腹上ニ仏与舎利弗通見自今已後我弟子必 不ント飲酒制法従是起ル梵網古迹ニ酒者迷乱起罪之本ナリ 昔ハ是伏龍之勢ナレドモ而今ハ不禁蝦蟆ヲモ乃至四逆従此而生又 一切ノ聖不飲酒者以ノ諸聖ハ者具ルヲ慚愧故ニ飲テ令ル失/n5-27r
正念ヲ故云々聖者有恥増シテ世人分過酒トラカサレス有ン 耶俗云聞祝晋恵遠ハ居廬山下ニ持律精苦シテ過レハ中(チウ)不 受密湯而作詩換酒飲陶彭澤ニ送客ヲ無貴賤不過 虎渓廬山記ニ遠師送陶元亮陸脩静ヲ不覚過虎渓 因テ相与ニ大咲ス今世伝三咲閣ヲ禅月作詩云愛シテ陶長 官ヲ酔テ兀々送テ陸道士ヲ行テ遅々買酒過渓皆破戒 斯何人ソヤ斯ク師如斯羅什曰東方ニ当有護法菩薩勗(キヨクナル) 哉仁者ト遠公ヲ誉タリ論ニ曰遠師有大功於釈氏猶孔門之 孟公焉云々既ニ遠師ハ一宗元祖破飲酒而過虎渓ヲ此事/n5-27l
鱠炙(クハイシヤ)アツル人口ニ寔古今ノ絶勝也僧云汝比シテ遠師ヲ止ヨ為ルコト類ト色心/n5-28r