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text:sanboe:ka_sanboe3-29

三宝絵詞

下巻 十一月 29 熊野八講会

校訂本文

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熊野八講会(くまののはつかうゑ)

紀伊国牟婁郡(むろのこほり)に神います。熊野両所(くまのりやうじよ)、証誠一所(しょうじやういつしよ)と名付け奉れり。両所は母と娘なり。結(むすび)1)・早玉(はやたま)2)と申す。一所はそへる3)社なり。この山の本神4)と申す。新宮5)・本宮にみな八講を行ふ。

紀伊国は南海のきは、熊野郷(くまののさと)は奥の郡の村なり。山重なり河多くして、行く道遥かなり。春行き秋来たりて、至る人まれなり。山の麓(ふもと)にをる者は、菓(このみ)を拾ひて命をつぐ。海のほとりに住むものは、魚(いを)漁(すなど)りて罪を結ぶ。もし、この社いませざりせば、八講をも行はざらまし。この八講なからましかば、三宝をも知らざらまし。五十人までも語り伝へがたかるべき眇眇(べうべう)たる所に、妙法を広め聞かしめ給へるは、菩薩の跡を垂れたるといふべし。

四日の檀越(だにをち)・執行(しふぎやう)6)は、ただ来たれる人の勧むるに従ふ。八座の講師(かうじ)・聴衆(ちやうじゆ)は、集まれる僧の勤むるに任せたり。僧供(そうぐ)は鉢・鋺(かなまり)をもまうけず、きのこふ7)に受け、帯袋(おびぶくろ)に入る。講説(かうぜち)は裳(も)・袈裟(けさ)をととのへず、鹿(しし)の皮衣(かはごろも)を着(き)、脛巾(はばき)をしたり。貴賤の品(しな)をも選ばず、老少をも定めず。

賢愚経(けんぐきやう)に、「仏、五施(ごせ)を讃め給ふ。福を得ること無量なり。この世に報いを得つ。遠く来たれる人に施(せ)すると、遠く去る人に施すると、飢ゑ疲れたる者に施すると、病(やまひ)せるものに施すると、法を知れる人に施するとなり。この施僧(せそう)の庭を見るに、五種みな備へたり。これまで至れるは、遠く歩めるなり。帰らむとするは、遠く去るなり。糧(かて)なき者は、飢ゑ疲れたるなり。足腫れたる者は、病し苦しぶなり。経を読み呪を誦(ず)するは、法を知れるなり。檀越の福を得ること疑ひあるべからず」。

また優婆塞戒経(うばそくかいきやう)に云はく、「菩薩は物を施す時に、善悪人をいはず。貴賤種を選ばず。受くる人をも荒き言葉にて罵(の)らず」といへり。

また大論8)に説くを聞けば、「一人9)の長者ありき。日々についでによりて、諸(もろもろ)の老いたる僧のみ請じて供養す。沙弥をば呼ばず。羅漢の位を得たる諸の沙弥等、形を化して老僧となりて、その家に至りぬ。眉の白きこと雪のごとし。面(おもて)の皺(しわ)めること波10)のごとし。座につきて後、もとの沙弥の形になりぬ。檀越、驚き悔ゆ。沙弥教へて云はく、『なんぢ、愚かにして、僧の善悪を定む。蚊虻(もんまう)の觜(くちばし)をもて、海の水を飲み尽すべからず。人の心をもて、僧の徳をはかるべからず。われらはじめより仏法・僧宝の優り劣れることあること見ず』と言ひき」。

われ今あまねく戒む。君聞き取れ。心を等しくして、同じく供養せよ。撰ぶことなかれ。

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十一月
 熊野八講会
紀伊国牟婁(ムロノ)郡ニ神イマス熊野両所證誠一所トナツケ
タテマツレリ両所ハ母ト娘也結(ムスヒ)早玉(ハヤタマ)ト申一所ハソヘル(副)社
也此山ノ本神ト申新宮本宮ニミナ八講ヲオコナフ紀伊/n3-72l・e3-70l

https://dl.ndl.go.jp/pid/1140087/1/72

国ハ南海ノキハ熊野郷(サト)ハ奥(ノ)郡(ノ)村也山カサナリ河多シテ
ユクミチハルカナリ春ユキ秋来テイタル人マレ也山ノ麓ニ
ヲルモノハコノミ(菓)ヲヒロイテ命ヲツク海ノホトリニスムモノハ魚
スナトリテツミヲムスフモシコノ社イマセサリセハ八講ヲモ行ハサラ
マシ此八講ナカラマシカハ三宝ヲモシラサラマシ五十人マテモ語(カタリ)
伝カタカルヘキ眇眇タル所ニ妙法ヲヒロメキカシメ給ヘルハ菩薩
ノアトヲタレタルトイフヘシ四日ノ檀越執行(事イ)ハタタキタレル人
ノススムルニシタカフ八座ノ講師聴衆ハアツマレル僧ノ/n3-73r・e3-71r
ツトムルニマカセタリ僧供ハ鉢鋺(カナマリ)ヲモマウケスキノコフニウケ
帯袋ニイル講説ハ裳袈裟ヲトトノヘス鹿皮衣ヲキ
脛巾ヲシタリ貴賤ノシナヲモエラハス老少ヲモサタメス
賢愚経ニ仏五施ヲホメ給フ。福ヲウル事無量ナリ此世ニ
報ヲエツトヲクキタレル人ニ施スルト遠サル人ニ施スルトウヱ
ツカレタルモノニ施スルト病セルモノニ施スルト法ヲシレル人ニ
施スルト也此施僧ノ庭ヲ見ルニ五種皆備ヘタリコレマテイ
タレルハ遠アユメル也カヘラムトスルハ遠サル也カテナキモノハ/n3-73l・e3-71l

https://dl.ndl.go.jp/pid/1140087/1/73

ウヘツカレタルナリ足ハレタルモノハ病シクルシフ也経ヲヨミ呪ヲ
誦スルハ法ヲ知レル也檀越ノ福ヲウル事ウタカヒアルヘカラス
又優婆塞戒経云菩薩ハモノヲホトコス時ニ善悪人ヲイハ
ス貴賤種ヲエラハスウクル人ヲモアラキコトハニテ乃ラスト
イヘリ又大論ニトクヲキケハ独ノ長者アリキ日々ニツイテニ
ヨリテ諸ノ老タル僧ノミ請シテ供養ス沙弥ヲハヨハス羅
漢ノ位ヲエタル諸ノ沙弥等形ヲ化シテ老僧トナリテ其家
ニイタリヌ眉ノ白事雪ノコトシ面ノシハメル事浪ノ如/n3-74r・e3-72r
シ座ニツキテ後モトノ沙弥ノ形ニナリヌ檀越オトロキクユ
沙弥教テ云汝愚ニシテ僧ノ善悪ヲサタム蚊虻ノ觜ヲモテ
海ノ水ヲノミツクスヘカラス人ノ心ヲモテ僧ノ徳ヲハカルヘカラ
ス我等ハシメヨリ仏法僧宝ノマサリオトレル事アル事ミス
トイヒキ我今アマネクイマシムキミキキトレ心ヲヒトシク
シテ同ク供養セヨ撰事ナカレ/n3-74l・e3-72l

https://dl.ndl.go.jp/pid/1140087/1/74

1)
熊野夫須美大神・熊野那智大社
2)
熊野速玉大神・熊野速玉大社
3)
底本「副」と傍書
4)
熊野本宮大社
5)
熊野速玉大社
6)
底本「行」に「事イ」と傍書。
7)
不明。前田家本「木節」。ここから現代思潮社古典文庫は「木の甲」とする。
8)
大智度論
9)
底本表記「独」
10)
底本表記「浪」。
text/sanboe/ka_sanboe3-29.txt · 最終更新: 2025/01/10 22:11 by Satoshi Nakagawa