下巻 八月 25 比叡不断念仏
校訂本文
比叡不断念仏(ひえのふだんねんぶつ)
念仏は、慈覚大師1)の唐土(もろこし)より伝へて、貞観七年より始め行へるなり。四種三昧(ししゆさんまい)の中には、常行三昧(じやうぎやうさんまい)と名付く。
仲秋の風凉しき時、中旬の月明らかなるほど、十一日の暁より十七日の夜に至るまで、不断に行はしむるなり。(故に結願の夜の修行三七日なり。唐には三七日行と云ふ。我山には三所に分かちて、一七日行なり。合はせて三七日なり云々。2))
身は常に仏を廻る。身の罪ことごとく失せぬらむ。口には常に経を唱ふ。口の過(とが)みな消えぬらむ。心は常に仏を念ず。心の過(あやま)ち全て尽きぬらむ。
阿弥陀経に云はく、「もし善心をおこせる善男女ありて、阿弥陀仏の名号(みやうがう)を聞き持(たも)ちて、もしは一日、もしは二日、もしは三日、ないし七日一心不乱、臨終の時に心(こころ)顛倒(てんたう)せずして、すなはち極楽に生まる」。七日を限れることは、この経によてなり。
また、かの仏3)はこの土(くに)の衆生(しゆじやう)に大誓願(だいせいぐわん)あり。この土(くに)の衆生はかの仏に大因縁あり。一度(ひとたび)その名を唱ふれば、音(こゑ)を上ぐるほどに八十億劫(こふ)の生死(しやうじ)の罪を消し、たちまちにその国に生まるれば、臂(ひじ)を延ぶる間に、十万億の境(さかひ)を越えぬ。
かの浄土を心ざし求むる人は、必ず厭(いと)ひ、願ふ心を発(おこ)すべし。厭ふ心は、立ちても座(ゐ)ても、ただこの身の苦多かるを厭ふなり。願ふ心は、寝ても覚めても、かの国の楽しみを願ふなり。春の花を見む朝(あした)にも、七重(しちじう)の林の色おぼつかなかるべし。秋の風を聞かむ夕べには、八功(はちく)の波の音(こゑ)を思ひやれ。常に暮れむ日にそへつつ、心を西方(さいはう)に送れ。一日も微善(びぜん)も、志(こころざし)は疑ひなし。五逆の重き罪をも、頼めばすなはち生まれぬ。
翻刻
八月 比叡不断念仏 念仏ハ慈覚大師ノモロコシヨリ伝テ貞観七年ヨリ始行ヘル ナリ四種三昧ノ中ニハ常行三昧トナツク仲秋ノ風ススシキ時/n3-64r・e3-62r
中旬ノ月明ナルホト十一日ノ暁ヨリ十七日ノ夜ニイタルマテ不 断ニ令行也(故結願夜修行三七日也唐ニハ三七日行ト云/我山ニハ三所ニ分テ一七日行也合三七日也云々)身ハ常ニ仏 ヲ廻ル身ノ罪コトコトクウセヌラム口ニハ常経ヲ唱フ口ノトカ皆 キエヌラム心ハ常ニ仏ヲ念ス心ノアヤマチスヘテツキヌラム阿弥 陀経云若善心ヲオコセル善男女アリテあみだ仏の名号ヲ聞 持チテ若一日若二日若三日乃至七日一心不乱臨終ノ 時ニ心顛倒セスシテ即極楽ニ生ル七日ヲカキレル事ハ此経ニ ヨテ也又彼仏ハ此土ノ衆生ニ大誓願アリ此土ノ衆生ハ彼/n3-64l・e3-62l
https://dl.ndl.go.jp/pid/1140087/1/64
仏ニ大因縁アリ一度ソノ名ヲ唱レハ音ヲアクルホトニ八十億 劫ノ生死ノ罪ヲケシ忽ニソノ国ニムマルレハ臂ヲ乃フルアヒタニ 十万億ノサカヒヲコエヌ彼浄土ヲ心サシモトムル人ハカナラス厭 ヒ願フ心ヲ発スヘシ厭フ心ハタチテモ坐テモタタ此身ノ苦オホ カルヲイトフ也願フ心ハネテモサメテモカノ国ノ楽ミヲネカフナリ 春ノ花ヲミム朝ニモ七重ノ林ノ色オホツカナカルヘシ秋ノ風ヲキ カム夕ニハ八功ノ浪ノコヱヲ思ヒヤレツネニクレム日ニソヘツツ心ヲ 西方ニヲクレ一日モ微善モ志ハウタカヒナシ五逆ノヲモキ/n3-65r・e3-63r
罪ヲモタノメハ即生レヌ/n3-65l・e3-63l