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text:sanboe:ka_sanboe3-19

三宝絵詞

下巻 四月 19 比叡受戒

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比叡受戒(ひえのじゆかい)

この国に、昔、まづ声聞戒(しやうもんかい)を伝へたり。伝教大師1)、唐土(もろこし)に渡りて顕密(けんみつ)の道を習ひ、菩薩の戒(いむこと)を受けてより、天台宗はじめて起こり、菩薩戒また伝はれるなり。

延暦の末の年に年分を申し置き、弘仁の末のころほひに、大師はじめて云はく、「南岳(なんがく)2)・天台3)の二人の大師、みな菩薩戒を受けたり。あひ授(さづ)けつつ、今に及べり。このゆゑに、わが宗の僧は、みなこの戒を伝へ受くべし」と云ひて、公(おほやけ)に申すに、定め下されがたし。大師、筆をふるひ文を飛ばして、顕戒論(けんかいろん)三巻を作りて奉り、証文(しょうもん)を多く明らかなりしかば、弘仁十三年六月にこれを許し下して、官符(くわんぷ)を賜ひ、戒壇(かいだん)を立てたり。

この大乗戒は、あまたの経に讃め説けり。

梵網経(ぼんまうきやう)に云はく、「菩薩の戒を受けざる者、畜生に異らず。名付けて邪見(じやけん)とす。名付けて外道(ぐゑだう)とす。もし法師ありて、一人を教へて菩薩戒を受けしむるは、功徳、八万四千の塔を造るにまされり。いはむや二人・三人・百千人をや」とのたまへり。

また、心地観経(しんぢくわんきやう)に云はく、「上品(じやうぼん)に持(たも)つ者は、法王の位を得て衆生を導く。中品に持つは、輪王(りんのう)の位を得て諸(もろもろ)の楽しびを受く。下品(げぼん)に持つは、戒を誤ちて、たとひ悪道に落つれども、戒の力すぐれたるによりて、常にその中に王となる。諸の輩(ともがら)従ひ敬ひて、心に自在を得たり。このゆゑに、諸の衆生(しゆじやう)は菩薩の浄戒を受くべし。生死(しやうじ)の深き海を越ゆるには、菩薩の浄戒を梶(か)取りす4)。貪嗔(とんじん)のつき縛れる切るには、菩薩の戒を利(と)き刀とす。鬼魅(きみ)の悩まし煩はすを離るるには、菩薩戒を良き薬とす」とのたまへり。

菩薩戒といふは、三聚浄戒(さんじゆじやうかい)なり。一つには摂律義戒(せふりつぎかい)5)。もろもろの悪しきことを断つなり。二つには摂善法戒(せふぜんほふかい)((底本表記「接善法戒」。)。もろもろの良きことを行ふなり。三つには饒益有情戒(ねうやくうじやうかい)。もろもろの衆生を渡すなり。まさに知るべし、大乗の初めの心をおこすには、二乗の極めたる位に越えたり。

昔、羅漢(らかん)ありて、沙弥(しやみ)に衣(ころも)包める袋を担(にな)はしめて行く。沙弥、心の中にしばらく菩薩の心をおこす。羅漢、これを知りて、みづから袋を取りて担ひて、後(しり)に立ちて行く。沙弥また心の中に、「菩薩の道は行ひがたかるべし」と思ひ返しつ。羅漢、また知りて、袋をさづけて前(さき)に立ちぬ。沙弥、あやしみて問ふ。羅漢、答へて云はく、「なんぢ、前(さき)には大きなる心をおこしたりつれば、われにすぐれたり。今はその心をとどめつれば、われに劣れるゆゑなり」と云ひき。

まさにたへむに随(したが)ひて、よく戒を守るべし。かの草に繋がれたりし比丘は、王の行幸(みゆき)の時に許され、玉(たま)を責められし沙門は、鵞(が)の死る後にあらはしき。すべて天台の菩薩戒も、南京の声聞戒も、みなこれ仏法の命を継ぐなり。経律論(きやうりつろん)の中につぶさなり。かねてはまた、年穀(ねんこく)の豊かならむことを祈るなり。提謂経(だいゐきやう)の文(もん)に明らかなり。

これによりて、「受戒は年の初めにあるべし」と定めて、嘉祥の官符には、「四月三日行なへ」と給ひ、寛平の官符には「四月十五日のさきに行へ」と言へり。

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 比叡受戒
此国ニ昔マツ声聞戒ヲツタヘタリ伝教大師モロコシニ渡テ
顕密ノミチヲナラヒ菩薩ノイムコトヲウケテヨリ天台宗ハシメテ
オコリ菩薩戒又伝レル也延暦ノスヱノ年ニ年分ヲ申置キ
弘仁ノ末ノ比ヒニ大師ハシメテ云ク南岳天台ノ二リノ大師ミ
ナ菩薩戒ヲウケタリアヒ授ツツイマニ及リコノ故ニ我宗ノ/n3-48r・e3-46r
僧ハミナ此戒ヲ伝ヘ受ヘシト云テオホヤケニ申ニ定下サレ
カタシ大師筆ヲフルヒ文ヲトハシテ顕戒論三巻ヲツクリテタテマ
ツリ證文ヲオホク明ナリシカハ弘仁十三年六月ニ是ヲユルシ下テ
官符ヲタマヒ戒壇ヲ立タリコノ大乗戒ハアマタノ経ニホメ説リ
梵網経ニ云菩薩ノ戒ヲウケサルモノ畜生ニコトナラスナツケテ
邪見トスナツケテ外道トスモシ法師アリテ一人ヲヲシヘテ菩薩
戒ヲウケシムルハ功徳八万四千ノ塔ヲツクルニマサレリイハムヤ二
人三人百千人ヲヤトノ給ヘリ又心地観経ニ云上品ニタモツ者ハ/n3-48l・e3-46l

https://dl.ndl.go.jp/pid/1140087/1/48

法王ノ位ヲエテ衆生ヲミチヒク中品ニ持ハ輪王ノ位ヲエテ諸
ノ楽ヒヲウク下品ニ持ハ戒ヲアヤマチテタトヒ悪道ニオツレトモ
戒ノ力スクレタルニヨリテツネニ其中ニ王トナル諸ノトモカラ
シタカヒ敬テ心ニ自在ヲエタリ此故ニ諸ノ衆生ハ菩薩ノ浄
戒ヲウクヘシ生死ノフカキ海ヲコユルニハ菩薩ノ浄戒ヲヤ(カ)トリ(梶歟)トス
貪嗔ノツキシハレルキルニハ菩薩ノ戒ヲトキカタナトス鬼魅
ノナヤマシワツラハスヲハナルルニハ菩薩戒ヲヨキ薬トストノ給ヘリ
菩薩戒トイフハ三聚浄戒也一ニハ接律義戒モロモロノアシキ/n3-49r・e3-47r
コトヲタツナリ二ニハ接善法戒モロモロノヨキ事ヲ行フナリ三ニハ饒
益有情戒モロモロノ衆生ヲワタス也マサニ知ヘシ大乗ノハシメノ心
ヲオコスニハ二乗ノキハメタル位ニコヘタリ昔羅漢アリテ沙弥ニ衣
ツツメル袋ヲニナハシメテユク沙弥心ノ中ニシハラク菩薩ノ心ヲオコス
羅漢是ヲシリテミツカラ袋ヲトリテニナヒテシリニ立テユク沙
弥又心ノ中ニ菩薩ノ道ハ行カタカルヘシト思返シツ羅漢又知テ
袋ヲサツケテサキニタチヌ沙弥アヤシミテ問フ羅漢答テ云
汝サキニハ大ナル心ヲオコシタリツレハ我ニスクレタリ今ハ其心ヲトト/n3-49l・e3-47l

https://dl.ndl.go.jp/pid/1140087/1/49

メツレハ我ニヲトレルユヘナリト云キマサニタヘムニ随テヨク戒ヲ守
ヘシカノ草ニツナカレタリシ比丘ハ王ノミユキノ時ニユルサレ玉ヲセ
メラレシ沙門ハ鵞ノ死ルノチニアラハシキスヘテ天台ノ菩薩戒モ
南京ノ声聞戒モミナコレ仏法ノ命ヲツクナリ経律論ノ中ニ
ツフサナリカネテハ又年穀ノユタカナラム事ヲ祈也提謂経ノ
文ニ明也是ニヨリテ受戒ハ年ノハシメニアルヘシト定テ嘉祥
ノ官符ニハ四月三日ヲコナヘト給ヒ寛平ノ官符ニハ四月十五日
ノサキニ行ヘトイヘリ/n3-50r・e3-48r

https://dl.ndl.go.jp/pid/1140087/1/50

1)
最澄
2)
慧思
3)
智顗
4)
「梶取りす」は底本「ヤトリス」の「ヤ」に「カ 梶歟」と傍書。傍書に従い訂正。東大寺切(関戸本)「さうしのふかきうみをこゆるには菩薩戒をふねとす。ほなうのはけしきみちをすくるにはほさかいをやとりとす。」。
5)
底本表記「接律義戒」。
text/sanboe/ka_sanboe3-19.txt · 最終更新: 2024/12/14 17:09 by Satoshi Nakagawa