目次
下巻 四月 16 比叡舎利会
校訂本文
比叡舎利会(ひえのしやりゑ)
舎利会は慈覚大師1)の始め行へるなり。大師は下野国の人なり。生まるる時に、家の中に紫の雲立つ。国に聖(ひじり)の僧あり。人名付けて広智(くわうぢ)菩薩といふ。遥かに雲を見て、家に至りぬ。父母に誡めて、「この子はよくよく守り養へ」と云ふ。
九歳にして、広智が所に行きぬ。誓ひて観音経2)をさぐり得たり。後に広く経論(きやうろん)を悟れり。
夢に一人の大徳来たりて、頂を撫でて語らふ。夢の中に人ありて云はく、「これをば知れりや。比叡3)の大師なり」と教ふと見る。つひに比叡に登りて、伝教大師4)を見奉るに、笑(ゑみ)を含みて喜び語らひ給ふこと、昔夢に見し形に異ならず。心にみづから知りて、人に語らず。
承和五年に唐土(もろこし)に渡りぬ。天台山に行き五臺山に登り、多くの年を経て法を求め、あまたの師に逢ひて道を習へり。唐土の人の云はく、「わが国の仏法は、みな和上(わじやう)に従ひて東に去りぬ」と言ひき。
承和十四年に、この国に帰り来たりて、多くの仏舎利(ぶつしやり)を持て渡れり。
貞観二年に、この会を始め行ひて、惣持院(そうじゐん)に伝へをけり。多くの色衆(しきしゆ)を調(ととの)へ立て、二人の別当をさすことは永きこととなれれば、人の力の堪(た)ふるにしたがふ。日は定まれる日もなし。山の花の盛りなるを契れり。
昔、仏5)ののたまはく、「仏の舎利を供(ぐ)せむと、仏のいます身を供するとは、功徳ともに等しくして、果報異ならず。一度(ひとたび)舎利を拝むに、罪を消し天に生まる。宝の器物(うつはもの)を作りて入れよ。宝の塔を建てて置け」とのたまへり。
かくのごとく説き給へることの多かれば、涅槃(ねはん)の時に、衆生(しゆじやう)の輩(ともがら)は、如来を恋ひ悲しび奉りて、舎利をば願ひ争ふ。四王(しわう)6)は「取りて天に昇りなむ」と思ひ、竜王は取りて海に入りなむとせしかば、仏の御弟子の云はく、「なむたちの心、はなはだ悪し。高く天の上に置き、深く海の中(うち)に納めては、土に住む人は、いかでか行きて供養し奉らむ」と言ひてとどめつ。帝釈(たいしやく)7)は許せるに従ひて一つの牙(げ)を得て去りぬ。羅刹(らせつ)は形を隠して二つの牙を盗みて失せぬ。
国々の大王、戦ひ争ひて奪はむとせしかども、王の都8)に置きて、固く守らしめ、仏の誡(いましめ)に従ひて、みだりに与へねば、一分をも得ずして、悲しび泣く者、数多し。闍王9)のねむごろに恋ひしも、恨みていたづらに去り、釈衆(しやくしゆ)の遥かに来たれるも、泣いて空しく帰りにき。
つひに、心直(なほ)く正しき香姓婆羅門(かうじやうばらもん)10)を選びて、等しく分かち配らしむるに、壺の中(うち)に蜜を塗りて、量るたびごとに多く付けたり。仏の御舎利にあへば、心良き人もなかりけり。舎利にも当たらぬ人々は、灰炭を得て供養しき。
そもそも、仏はつねにまします御身なり。命終りあるべからず。仏、清くむなしき御形なり。骨のとどまれるもあるべからねども、隠れ給ふことは機縁に随ひ、残し給へることは慈悲によれり。末の世の衆生に、善根を植ゑしめ給はむために、大悲方便(だいひはうべん)の力をもて金剛不壊(こんがうふゑ)の身を砕き給へるなり。このゆゑに、天竺にも、塔に置き寺に納めたるに、花降り光を放てば、国王来たりて供養し、男女集まりて礼拝す。
われら、昔、罪によりて、いませし世にはあはねども、今、機縁ありて、舎利に参りあへり。その拾ひし時を数(かぞ)ふれば、荼毘(だび)の煙(けぶり)年久し。その伝はれる所を思へば、流沙の雲道遥かなり。
会(ゑ)を拝み奉る人は、近く見奉ることを悦ぶに、山に登らぬ女は、よそに聞くことを悲しぶらむ。
われ聞く、鑑真和尚の建てたる招提11)にも年々の五月に行ひ、遍昭僧正の弘めたる花山12)にも時々三月に行ふなり。
言(こと)13)を寄する、家々所々の女に。この二寺(ふたでら)に詣でて、舎利を拝み奉れ。
翻刻
四月 比叡舎利会 舎利会ハ慈覚大師ノハシメ行ヘル也大師ハ下野国ノ人也生ル時ニ/n3-40l・e3-38l
https://dl.ndl.go.jp/pid/1140087/1/40
家ノ中ニ紫ノ雲タツ国ニヒシリノ僧アリ人ナツケテ広智菩薩ト イフハルカニ雲ヲミテ家ニイタリヌ父母ニイマシメテコノ子ハヨクヨク マモリヤシナヘト云九歳ニシテ広智カ所ニユキヌ誓テ観音経ヲ サクリエタリ乃チニヒロク経論ヲサトレリユメニヒトリノ大徳来テ 頂ヲナテテカタラフ夢ノ中ニ人アリテ云是ヲハシレリヤ比叡ノ 大師ナリトヲシフトミルツヒニ比叡ニノホリテ伝教大師ヲミタテマ ツルニ咲ヲ含テヨロコヒカタラヒ給事昔夢ニミシ形ニコトナラス 心ニミツカラシリテ人ニカタラス承和五年ニモロコシニ渡ヌ/n3-41r・e3-39r
天台山ニユキ五臺山ニノホリオホクノ年ヲヘテ法ヲモトメ アマタノ師ニアヒテ道ヲナラヘリモロコシノ人ノ云ク我国ノ仏法ハ ミナ和上ニシタカヒテ東ニ去ヌトイヒキ承和十四年ニ此国 ニ帰来テ多乃仏舎利ヲモテワタレリ貞観二年ニ此会ヲ 始行ヒテ惣持院ニツタヘヲケリ多ノ色衆ヲトトノヘタテ二リノ 別当ヲサス事ハナカキコトトナレレハ人ノ力乃タフルニシタカフ 日ハ定レル日モナシ山ノ花ノサカリナルヲ契レリ昔仏ノ乃玉ハク 仏ノ舎利ヲ供セムト仏ノイマス身ヲ供スルトハ功徳トモニ/n3-41l・e3-39l
https://dl.ndl.go.jp/pid/1140087/1/41
ヒトシクシテ果報コトナラス一タヒ舎利ヲオカムニ罪ヲケシ 天ニ生ル宝ノウツハ物ヲツクリテイレヨ宝ノ塔ヲタテテ置ト 乃タマヘリカクノコトク説給ヘル事乃オホカレハ涅槃ノ時ニ衆 生ノトモカラハ如来ヲコヒカナシヒタテマツリテ舎利ヲハネカヒ アラソフ四王ハトリテ天ニノホリナムト思ヒ龍王ハ取テ海ニ 入ナムトセシカハ仏ノ御弟子ノ云クナムタチノ心甚タアシ高ク 天ノ上ニオキ深ク海ノウチニオサメテハ土ニスム人ハイカテカ行 テ供養シタテマツラムトイヒテトトメツ帝尺ハユルセルニシタ/n3-42r・e3-40r
カヒテ一ノ牙ヲエテサリヌ羅刹ハ形ヲカクシテ二ノ牙ヲヌスミ テ失ヌ国々ノ大王タタカヒアラソヒテウハハムトセシカトモ王 ノ宮コニオキテカタクマモラシメ仏ノイマシメニシタカヒテミタ リニアタヘネハ一分ヲモエスシテカナシヒナクモノカスヲホシ 闍王ノネムコロニコヒシモウラミテイタツラニ去リ釈衆ノハルカニ 来レルモナイテ空クカヘリニキツヒニ心直クタタシキ香性婆羅 門ヲエラヒテヒトシクワカチクハラシムルニツホノウチニ蜜ヲ ヌリテハカルタヒコトニオホクツケタリ仏ノ御舎利ニアヘハ心ヨキ/n3-42l・e3-40l
https://dl.ndl.go.jp/pid/1140087/1/42
人モナカリケリ舎利ニモアタラヌ人々ハ灰炭ヲエテ供養シ キ抑仏ハツネニマシマス御身ナリ命ヲハリアルヘカラス仏 キヨクムナシキ御カタチ也ホネノトトマレルモアルヘカラネトモカ クレ給事ハ機縁ニ随ヒ乃コシ給ヘル事ハ慈悲ニヨレリ末ノ ヨノ衆生ニ善根ヲウヘシメ給ハムタメニ大悲方便ノ力ヲモテ 金剛不壊ノ身ヲクタキ給ヘル也コノ故ニ天竺ニモ塔ニオキ 寺ニヲサメタルニ花フリ光ヲハナテハ国王来テ供養シ男女 アツマリテ礼拝ス我等昔ツミニヨリテイマセシヨニハアハネ/n3-43r・e3-41r
トモ今機縁アリテ舎利ニマイリアヘリソノヒロヒシ時ヲカソ フレハ荼毘ノケフリ年久シソノツタハレル所ヲ思ヘハ流沙ノ雲 ミチハルカ也会ヲヲカミタテマツル人ハ近クミタテマツル事ヲ悦フ ニ山ニノホラヌ女ハヨソニキク事ヲカナシフラム我キク鍳真 和尚ノタテタル招提ニモ年々ノ五月ニ行ヒ遍昭僧正ノ弘メタル 花山ニモ時々三月ニ行フナリ事ヲヨスル家々所々ノ女ニコノ 二(フタ)寺ニマウテテ舎利ヲオカミタテマツレ/n3-43l・e3-41l