下巻 三月 15 薬師寺万灯会
校訂本文
薬師寺万灯会(やくしじのまんどうゑ) 二十三日
薬師寺の万灯会は、寺の僧恵達(ゑたつ)が始めたるなり。生けるほどはみづから行ひて、死に臨みては大衆(だいしゆ)につけたり。恵達、後には律師になりて死ぬ。寺の西に葬(はふ)る。この会(ゑ)行ふ夜はかの墓に光ありといへり。
灯火(ともしび)の功徳を讃めたること、あまたの経に多く説けり。阿闍世王受決経(あじやせわうじゆけつきやう)に云はく、「阿闍世王、仏を請じ奉りて、供養し奉る。帰り給ふ時に、王、百石(ひゃつこく)の油をもちて、宮の門より祇園精舎(ぎをんしやうじや)に至るまで灯火を灯せり。
時に貧しき女、これを<見て心を励ます。二つの銭を求めて、油を買ふ。油の主(あるじ)の云はく、『なんぢ、きはまりて貧し。食ひ物を買はずして、油を買ふは何の心ぞ』と問ふ。女、答ふ、『われ聞く、仏の出で給へるにはあひがたし。われ幸ひにあひ奉れり。供養を奉るに力なし。今日、王の大きなる功徳を作るを見て、『一つの灯火をだに奉りて、後の世の種とせむ』と思ふなり』といふ。油の主、聞き悲しびて、値(あたひ)の外(ほか)に加へて与ふ。すなはち、仏の御前に灯す。消えむこと、夜中までだに足るまじ。女、誓ひて云はく、『われ後の世に仏となるべくは、この油尽きずして、夜もすがら光消えざれ』といふ。
仏、目連(もくれん)に告げ給はく、『天すでに明けぬ。灯火を消つべし』と。目連、立ちて諸(もろもろ)の灯を消つに、王の灯火はみな消えぬ。貧女(ひんによ)が一つの灯火、三度(みたび)消つに消えず。袈裟をもちて扇(あふ)げども、その光いよいよまさる。仏のたまはく、『やみね、やみね1)。これ後の世の仏の光なれば、なんぢが力の消(き)やすべきにあらず。この女、三十劫(さんじふこふ)を経て仏にならむ。名をば須弥灯光如来(しやみとうくわうによらい)といはむ』とのたまふ。女、聞きて大きに喜ぶ。
王、聞きて怪しびて、耆婆(ぎば)に問ふ。『わが灯火は多かり。女の灯火は少なし。何によりて、仏のわれには授記(じゆき)し給はずして、この女のまづ記を受けつる』と言ふ。耆婆が云はく、『王の灯は多かりといへども、御心(みこころ)専(もはら)ならねば、この女のいたせるには及ばぬなり』と申す。
王、まことをいたして灯火を奉る時に、仏、記を授けてのたまはく、『八万劫を過ぎて仏にならむ』とのたまへり」。
また、譬喩経(ひゆきやう)に云はく、「阿難(あなん)、仏に申さく、『阿那律(あなりつ)2)、昔いかなるゆゑありてか、今、天眼明らかにすぐれたる』と。仏ののたまはく、『昔、毘婆尸仏、涅槃に入り給ひて後、この人その時に盗人となれりき。堂の中(うち)に入りて、堂の物を盗まむとする時に、仏の前の灯火消えなむとす。『火を明かして物をとらむ』とて、矢をもちて灯をかかげたるに、仏の御形の明らかに見ゆるに怖ぢて、出て3)思はく、『異人(ことひと)は物を尽くしてだにこそ功徳を作れ4)、われもまた同じ人なり。盗み取ること、恥かしきかな』と思ひて、捨て置きて去りにき。灯をかかげてし功徳によりて、それより後九十一劫、常に良き所に生まる。いま、われにあひて、出家して阿羅漢(あらかん)を得たり。天眼第一(てんげんだいいち)なるなり』とのたまへり」。
一つの灯火の光すら仏になる。いはんや、万灯をや5)。盗人のかかげしだに道を得たり。いはんや、沙門のかかぐるをや。この会(ゑ)の功徳は、必ず智恵の光を得て無明の闇を照らすべし6)。
翻刻
薬師寺万燈会 廿三日/n3-38r・e3-36r
薬師寺ノ万燈会ハ寺ノ僧恵達カハシメタルナリイケルホトハ ミツカラ行テ死ニノソミテハ大衆ニツケタリ恵達ノチニハ律師ニ ナリテシヌ寺ノ西ニハフル此会行フ夜ハカノ墓ニ光アリトイヘリ トモシ火ノ功徳ヲホメタル事アマタノ経ニヲホクトケリ阿闍世王 受決経云阿闍世王仏ヲ請シタテマツリテ供養シタテマツル帰 給フ時ニ王百石ノ油ヲモチテ宮ノ門ヨリ祇園精舎ニイタルマテ トモシ火ヲトモセリ時ニ貧キ女コレヲミテ心ヲハケマス二ノ銭ヲ モトメテ油ヲ買フ油ノアルシノイハク汝キハマリテマツシクヒ(食)物ヲ/n3-38l・e3-36l
https://dl.ndl.go.jp/pid/1140087/1/38
カハスシテ油ヲ買ハナニノ心ソトトフ女コタフ我キク仏ノ出給ヘルニ ハアヒカタシワレ幸ニアヒタテマツレリ供養ヲタテマツルニチカラ ナシ今日王ノ大ナル功徳ヲツクルヲミテ一ノ燈ヲタニタテマツリテ 後(ノ)世ノタネトセムトオモフナリトイフ油ノアルシキキカナシヒテ アタヒノ外ニクハヘテアタフ即チ仏ノ御前ニトモス消ム事夜中 マテタニタルマシ女誓テ云我後ノ世ニ仏トナルヘクハ此油ツキス シテヨモスカラ光キヘサレトイフ仏目連ニ告給ハク天ステニ アケヌ燈ヲケツヘシト目連タチテ諸ノ燈ヲケツニ王ノ燈ハ皆/n3-39r・e3-37r
キヘヌ貧女カ一ノ燈三タヒケツニキエス袈裟ヲモチテアフ(扇)ケ トモソノ光イヨイヨマサル仏ノ給ハクヤミネヤミネ(止止)是ノチノ世ノ仏ノ光 ナレハ汝カチカラノキヤスヘキニアラス此女卅劫ヲヘテ仏ニナラム名 ヲハ須弥燈光如来トイハムトノ給フ女キキテ大ニヨロコフ王聞 テアヤシヒテ耆婆ニ問我燈ハオホカリ女ノトモシ火ハスクナシ ナニニヨリテ仏ノワレニハ授記シタマハスシテ此女ノマツ記ヲウケ ツルトイフ耆婆カ云ク王ノ燈ハオホカリトイヘトモ御心専ナラネハ 此女ノイタセルニハ及ハヌ也ト申王マコトヲイタシテ燈ヲタテマツル/n3-39l・e3-37l
https://dl.ndl.go.jp/pid/1140087/1/39
時ニ仏記ヲサツケテノ給ハク八万劫ヲスキテ仏ニナラムトノ給ヘリ 又譬喩経ニ云阿難仏ニ申サク阿難律昔イカナルユヘアリテ カ今天眼明ニスクレタルト仏ノノ給ハク昔毗婆尸仏涅槃ニ 入給テノチ此人ソノ時ニヌス人トナレリキ堂ノ中ニ入テ堂 ノ物ヲヌスマムトスル時ニ仏ノマヘノ燈キエナムトス火ヲアカシテ 物ヲトラムトテ矢ヲモチテ燈ヲカカケタルニ仏ノ御カタチノ明カニ ミユルニヲチテ出(恐レ)テ思ハクコト人ハ物ヲツクシテタニコソ功徳ヲ ツクレ(ルニ)我モ又同人也ヌスミトル事ハツカシキカナト思テステ/n3-40r・e3-38r
オキテサリニキ燈ヲカカケテシ功徳ニヨリテソレヨリノチ九十 一劫ツネニヨキ所ニ生ル今我ニアヒテ出家シテ阿羅漢ヲ エタリ天眼第一ナル也トノ給ヘリ一ノ燈ノ光スラ仏ニナル況 ヤ(万燈ヲヤ)ヌス人ノカカケシタニ道ヲエタリ況ヤ沙門ノカカクルヲヤ此会 ノ功徳ハカナラス智恵ノ光ヲエテ無明ノヤミヲモ(テ)ラスヘシ/n3-40l・e3-38l