下巻 三月 14 比叡坂本勧学会
校訂本文
比叡坂本勧学会(ひえのさかもとのくわんがくゑ)
村上1)の御代、康保の初めの年、大学の北の堂の学生(がくしやう)の中に、心ざしを同じくし、交(まじ)らひを結べる人、あひ語らひて云はく、「人の世にあること、隙(ひま)を過ぐる駒のごとし。われらたとひ窓の中に雪をば聚(あつ)むとも、かつは門の外に煙を遁れむ。願はくは、僧と契りを結びて、寺に詣で会(ゑ)を行はむ。暮れの春、末の秋の望(もち)をその日に定めて、経を講じ仏を念ずることをその勤めとせむ。この世、後の世に、永き友として、法(のり)の道、文(ふみ)の道を互ひにあひ勧め習はむ」と云ひて、始め行へることを勧学会(くわんがくゑ)と名付くるなり。
十四日の夕べに、僧は山より下りて麓(ふもと)に集まり、俗は月に乗りて寺に行く。道の間(あひだ)に声を同じくして、居易2)の作れる「百千万劫の菩提の種、八十三年の功徳の林」といふ偈(げ)を誦(ず)して歩み行くに、やうやく寺に来ぬるほどに、僧また声を同じくして、法華経の中の「志求仏道者、無量千万億。咸以恭敬心、皆来至仏所(しぐぶつだうしや、むりやうせんまんおく。かんいくぎやうしん、かいらいしぶつしよ)」と云ふ偈を誦して待ち迎ふ。
十五日の朝(あした)には、法華経を講じ、夕べには弥陀仏3)を念じて、その後には暁に至るまで、仏を讃め、法を讃め奉りて、その詩は寺に置く。
また居易の、みづから作れる詩を集めて香山寺に納めし時に、「願はくはこの生(しやう)の世俗文字(せぞくもんじ)の業(げふ)、狂言綺語(きやうげんきぎよ)の誤りをもてかへして、当来世々(たうらいせぜ)、讃仏乗(さんぶつじよう)の因、転法輪(てんぽふりん)の縁とせむ」と言へる願(ぐわん)の偈誦し、また、「此身何足愛。万劫煩悩根。此身何足厭。一聚虚空塵。(この身何ぞ愛するに足らむ。万劫煩悩の根。この身何ぞ厭ふに足らむ。一聚虚空の塵。)」といへる詩などを誦する。
僧も互ひに法華経の「聞法歓喜讃、乃至発一言、即為已供養、三世一切仏(もんぽふくわんぎさん、ないしほついちごん、そくゐいくやう、さんぜいつさいぶつ)」といふ偈、また竜樹菩薩(りうじゆぼさつ)の十二礼拝の偈等を誦して夜を明かす。
娑婆世界は声(こゑ)仏事をなしければ、僧の妙(たへ)なる偈頌(げじゆ)を唱へ、俗の尊き詩句を誦するを聞くに、心おのづから動きて、涙、袖をうるほす。僧俗共に契りて云はく、「わが山亡びず、4)わが道尽きずは、この会も絶えずして、竜華三会(りうげさんゑ)に至らしめむ」といへり。
翻刻
比叡坂本勧学会 村上ノ御代康保ノ初ノ年大学ノ北ノ堂ノ学生ノ中ニ心サシヲ オナシクシマシラヒヲムスヘル人アヒカタラヒテ云人ノ世ニアル事 ヒマヲスクル駒ノコトシ我等タトヒ窓ノ中ニ雪ヲハ聚トモ且ハ/n3-36l・e3-34l
https://dl.ndl.go.jp/pid/1140087/1/36
門ノ外ニ煙ヲ遁ム願ハ僧ト契ヲムスヒテ寺ニマウテ会ヲ行 ハムクレノ春スヱノ秋ノ望(モチ)ヲソノ日ニ定テ経ヲ講シ仏ヲ念スル 事ヲ其勤トセムコノ世後ノ世ニナカキ友トシテ法ノ道文ノ道 ヲタカヒニアヒススメナラハムト云テ始行ヘル事ヲ勧学会ト名 ツクルナリ十四日ノ夕ニ僧ハ山ヨリオリテフモトニアツマリ俗ハ月ニ 乗テ寺ニユク道ノ間ニ声ヲ同クシテ居易ノツクレル百千万劫ノ 菩提ノ種八十三年ノ功徳ノ林トイフ偈ヲ誦シテアユミユクニヤウヤ ク寺ニキヌルホトニ僧又声ヲ同クシテ法花経ノ中ノ志求仏/n3-37r・e3-35r
道者無量千万億咸以恭敬心皆来至仏所ト云偈ヲ誦シテ マチムカフ十五日ノ朝ニハ法花経ヲ講シ夕ニハ弥陀仏ヲ念シテ ソノノチニハ暁ニイタルマテ仏ヲホメ法ヲホメタテマツリテソノ詩ハ 寺ニヲク又居易ノミツカラツクレル詩ヲアツメテ香山寺ニオサメシ 時ニ願ハコノ生ノ世俗文字ノ業狂言綺語ノアヤマリヲモテカヘシ テ当来世々讃仏乗ノ因転法輪ノ縁トセムトイヘル願ノ偈 誦シ又此身何足愛万劫煩悩ノ根此身何足厭一聚虚 空ノ塵トイヘル詩ナトヲ誦スル僧モ互ニ法花経ノ聞法歓/n3-37l・e3-35l
https://dl.ndl.go.jp/pid/1140087/1/37
喜讃乃至発一言即為已供養三世一切仏トイフ偈又 龍樹菩薩ノ十二礼拝ノ偈等ヲ誦シテ夜ヲアカス娑婆世 界ハコヱ仏事ヲナシケレハ僧ノ妙ナル偈頌ヲトナヘ俗ノタウトキ 詩句ヲ誦スルヲキクニ心オノツカラウコキテナミタ袖ヲウル ホスワカミチ尽スハコノ会モタヘスシテ龍花三会ニイタ ラシメムトイヘリ/n3-38r・e3-36r