目次
下巻 二月 6 修二月
校訂本文
修二月(しうにぐわつ)
この月の一日より、もしは三日、五夜、七夜、山里の寺々の大きなる行ひなり。造花(つくりばな)をいそぎ、名香を焼(た)き、仏の御前(おほんまへ)を飾り、人の入るべきを入るること、常の時の行に異なり。
そもそも、絹を刻める花して、すさびの戯(たはぶ)れかと疑はしく、香を焼く匂ひ、情(なさけ)のためかと覚ゆれど、みな仏の御教へにしたがふなり。
経に云はく、「花の色は仏界の飾りなり。もし花無からむ時は、まさに造れる花を用ゐるべし。香の煙は仏を迎へ奉る使(つかひ)なり。人間は臭く穢(けが)らはし。まさに良き香を焼くべし」とたまへればなり。
仏は色をも悦び給はず。香にも愛(め)で給はねども、功徳(くどく)のすぐれたるを勧め、信力(しんりき)の深きにをもぶき給ふなり。
香をもちて仏に奉るには、功徳かぎりなし。昔、毘婆尸仏(びばしぶつ)の涅槃の後に一人の長者あり。塔の後ろの土の割れ破れたるを見て、土を作りて塗りつくろひて、栴檀香(せんだんかう)をもちて、その上にまめし散らして、願をおこして去りぬ。これによりて、九十一劫(くじふいちこふ)悪道に落ちず。天に生まれ、人に生まれつつ、身香ばしく、口香ばし。今、迦毘羅城の長者の子と生まれて、形よきこと並びなし。身の中より栴檀の香を出だし、口の中より優鉢花(うはつげ)の香を出だす。父母、見喜びて名を栴檀香と名付けつ。仏の弟子となりて、羅漢の位を得たり。
また経に云はく、「口をもちて香の灰を吹きのくれば罪重し」と。
また云はく、「香を焼(た)かむ時は、まさにこの偈(げ)を誦(ず)すべし。
戒定恵知見香(かいぢやうゑげちけんかう)
遍十方界常芬馥(へんじつぽうかいじやうふんふく)
願此香烟亦如是(ぐわんしかうえんやくによぜ)
廻作自他五種身(くわいさじたごしゆしん)」
といへり。
まさに知るべし、一つの色、一つの香も、中道(ちうだう)にあらぬはなし。
翻刻
二月 修二月/n3-21l・e3-19l
https://dl.ndl.go.jp/pid/1140087/1/21
此月ノ一日ヨリモシハ三日五夜七夜山里ノ寺々ノ大ナル行也 ツクリ花ヲイソキ名香ヲタキ仏ノ御前ヲカサリ人ノイルヘキヲ イルルコトツネノ時ノ行ニコトナリソモソモキヌヲキサメル花シテスサ ヒノタハフレカトウタカハシク香ヲタクニホヒナサケノタメカト覚レト 皆仏ノ御教ニシタカフナリ経ニ云花ノ色ハ仏界ノカサリ也モシ 花ナカラム時ハマサニツクレル花ヲ用ルヘシ香ノケフリハ仏ヲムカヘ タテマツル使ナリ人間ハクサクケカラハシマサニヨキ香ヲタクヘシ ト乃給ヘレハ也仏ハ色ヲモヨロコヒ給ハス香ニモメテ給ハネトモ/n3-22r・e3-20r
功徳ノスクレタルヲススメ信力乃フカキニヲモフキ給也香ヲモチ テ仏ニタテマツルニハ功徳カキリナシ昔毗婆尸仏ノ涅槃ノノチ ニヒトリノ長者アリ塔ノウシロノツチノワレヤフレタルヲミテ土ヲツ クリテヌリツクロヒテ栴檀香ヲモチテソノウヘニマメシチラシテ願 ヲオコシテサリヌ是ニヨリテ九十一劫悪道ニオチス天ニ生レ 人ニ生ツツ身香シク口香シ今迦毗羅城ノ長者ノ子ト生 テカタチヨキ事ナラヒナシ身ノ中ヨリセムタムノ香ヲイタシ 口ノ中ヨリ優鉢花ノ香ヲイタス父母見喜テ名ヲ栴檀香/n3-22l・e3-20l
https://dl.ndl.go.jp/pid/1140087/1/22
トナツケツ仏ノ弟子トナリテ羅漢ノ位ヲエタリ又経ニ 云ク口ヲモチテ香ノ灰ヲフキノクレハツミヲモシト又イハク 香ヲタカム時ハマサニコノ偈ヲ誦スヘシ 戒定恵知見香 遍十方界常芬馥 願此香烟亦如是 廻作自他五種身 トイヘリマサニ知ヘシ一ノ色一ノ香モ中道ニアラヌハナシ/n3-23r・e3-21r