目次
中巻 18 大安寺栄好
校訂本文
昔、大安寺に栄好(ゑいがう)といふ僧あり。身貧しうして行ひ勤む。坊より出づることなし。老いたる母を寺の外(ほか)にすゑたり。一人の童(わらは)を室(むろ)のうちに使ふ。
七大寺、古(いにしへ)は室に釜甑1)(かまこしき)を置かず。政所(まんどころ)に飯をかしぎて露車(むなぐるま)に積みて、朝ごとに僧坊の前よりやりて、一人の僧ごとに小飯四升を受く。
栄好、これを受けて、四つに分けて、一つをば母に奉る。一つを来たる乞者(こつじや)に与ふ。一つをばみづから食ふ。一つをば童にあてたり。まづ母に送りて、参るよしを聞きてのちに、みづから食ふ。師、食ひてのちに、童食ふ。あまたの年を経て、このことあやまたず。
坊の傍らに近く並びて、勤操(ごんさう)と云ふ僧あり。また身貧しくて勤めあり。栄好と親しき友として、年を経てこのことを見聞く2)。
朝(あした)に、壁を隔てて聞くに、栄好が童子、今日の飯を受け置きて、隠し忍びて泣く声あり。勤操、怪しびて、ひそかに童を呼びて、「何ごとによりて泣くぞ」と問へば、答へて云はく、「今朝、師の僧、つつがなくしてにはかに終りたり。まづは、おのれ一人していかさまにて葬(おさ)め奉らむとすらむ。次には、師の飯にかかり給へる母、いかにして生き給ひたらむとすらむ」と云ひて泣く。勤操、悲しび思ふことかぎりなし。おのが父母を別れたらむがごとし。
すなはち教へて云はく、「なんぢ、さらに思ふべからず。葬めむことは、われとなんぢとして、今宵持て隠してむ。母をば、われあひ代はりて、飯を分けて養はむ。なんぢ、すでに変はらず、飯もまたあひ同じ。すべて今はわれを頼むこと、もとの師のごとく思へ。そもそも、ゆめゆめこのよしを母に知らしむな。年老い衰へたなれば、聞かば必ずまどひ死に給ひなむ。時違(たが)はざらむさきに、とく今日の飯を送れ」と言ふ。童、このことを聞きて、悲しびの中(うち)に喜びをなす。
涙を拭(のご)ひて、つれなさまを作りて、例のごとくに飯を持て行く。涙の落ちぬべければ、いふこともなくして、さし置きて、とく帰りぬ。母、今日の朝(あした)に心走りしけり。
この夜、勤操、童と担(にな)ひて、栄好を深き山の上に置きつ。寺の中(うち)に知らせずして、「しばらく、ほかに去りたる」と言はしむ。勤操、おのが飯を分けて、もとのごとくに母に送る。また、童に給ふ。母、ときどき童に問ふ、「『などか久しくいませぬ』と申せ」と言へば、童の云はく、「常に出で立ち給ふを、御行ひひまなく、人また来合ひて、とまらるるなり。『ただ平らかにおはす』と聞き喜びて、急がれぬなり。今宵も参られなむ」と言ひつつ、月日を送る。
またの年の春、人来たりて勤操に供養を奉れり。狭(せば)き坊に客人(まらうど)集まりて、童まづこのことを急ぎて、飯を分くることしばらく怠れり。客人、しひて薬の酒を勧めて、勤操、酒の気ありて眠(ねぶ)り入りて、おどろきて見るに、日の影傾(かたぶ)けり。すなはち童に目をくはせて、例の飯をやりつ。
母、語りて云はく、「老いぬる身の口惜しかりけるは。例の時少し過ぎつれば、今朝なむ心地悪しかりつ」と言ふに、童、悲しびの心胸にあまりて、堪(た)へずして、にはかに臥しまろびて泣く。母、怪しみて問ふ。隠し果つることあたはずして、泣く泣く云はく、「まことは御子は今までいますかりつるとや思(おぼ)す。去年(こぞ)のその月には隠れ給ひにき」と云ふ。母、「いかに、いかに」と言ふままに絶え終りぬ。童、いよいよ悲しがりて、こしらへおどろかせども生かず。悔い思へどもかひなし。
この由を勤操に申す。勤操、悲しび泣くことかぎりなし。「われ、もしまことの子ならましかば、かかることはあらましやは。われ、もし仏の制し給へる酒飲まざらましかば、片時も怠らましやは」と言ひつつ、泣き歎くことねむごろに深し。
今夜(こよひ)、同法(どうぼふ)の人七人を語らひて、もとの童親しく添ひて、この母を石渕寺(いはぶちでら)の山の麓(ふもと)に葬(はふ)りつ。
あくる朝(あした)に、八人の僧、堂に入りてしばし休む。勤操語らひて云はく、「われ栄好に代はりて、その母を養ひつ。その志いまだ久しからざるに、その命すでに絶えにたり。歎きてもかひなし。今は後の世を導かむと思ふに、堂の中(うち)に仏います、仏の御前(みまへ)に経います。見れば法華経なり。われら八人して八巻(やまき)の経を得たり。因縁ありと言ふべし。七々日の忌(き)の間は、この寺に来たりて、一日に一鉢をまうけて、一人に一巻を講ぜむ。年ごとの忌日(きにち)にも、今日の八人力を合はせて、その日を終りにあてて、四日講(よかかう)を修して、八巻の経を説かむ。名をば同法八講(どうぼふはつかう)といひて、年ごとに欠かじ」と言へば、残りの七人の僧もみな、「あはれに尊きことなり。必ずしかるべし」と契りて、延暦十五年死にたり3)、四十九日より始めて、後々の年の忌日ごとに絶えず行ふ。勤操の聖徳、世に讃められて、公私(おほやけわたくし)みな尊ぶ。この八講、いよいよ大きに行ふ。
勤操死にて後に、公(おほやけ)、僧正の職を贈り給ふ。東大寺の僧ども、石渕寺の八講尊きことなど聞きて、天地院にして代々(よよ)に伝へ行ふ。今に絶えず。この後に、寺々またみな始め、所々にあまねく広まる。あるいは開結経(かいけちきやう)加へて十講に行ふ所もあり。一寺の僧力を合はすることは、勤操が古き跡を継ぐなり。五巻の日、薪(たきぎ)を荷(にな)ふことは、国王4)の昔の心をまねぶなり。
八講の起こり、石渕寺の縁記に見えたり。
薪を荷(にな)ひて廻(めぐ)る讃歎の詞(ことば)に云はく、
法華経をわが得しことは薪こり菜摘み水汲み仕へてぞ得し
この歌は、あるいは光明皇后の詠み給へるともいひ、行基菩薩の伝へ給へりとも云ふ。いまだ詳(つまびらか)ならず。
讃に曰はく、守屋大連5)の愚かなる詞(ことば)にかかりて、わが国の仏経は断えぬべかりけるを、厩戸皇子(うまやどのみこ)6)のかしこき政(まつりごと)によりて、今日まて法門は伝はる所なり。四百歳より以来(このかた)、幾(いくばく)の衆生が知因(いんをしり)、悟果(くわをさとり)、離苦(くをはなれ)、得楽(たのしみをえし)。釈尊の法力、奇(あや)しきかな、妙(たへ)なるかな。
翻刻
昔大安寺ニ栄好トイフ僧アリ身マツシウシテオコナヒツトム坊ヨリ イツル事ナシ老タル母ヲ寺ノ外ニスヱタリ一人ノ童ヲ室ノウチニ ツカフ七大寺古ハ室ニ釜橧(カマコシキ)ヲオカス政所ニ飯ヲカシキテ露車ニ ツミテ朝コトニ僧坊ノ前ヨリヤリテ一人ノ僧コトニ小飯四升ヲウク 栄好是ヲウケテ四ニ分テ一ヲハ母ニタテマツル一ヲ来ル乞者ニアタフ/n2-45l・e2-42l
https://dl.ndl.go.jp/pid/1145963/1/45
一ヲハミツカラクフ一ヲハ童ニアテタリマツ母ニオクリテマイルヨシヲ聞 テノチニミツカラ食フ師食ヒテノチニ童クフアマタノ年ヲヘテ 此事アヤマタス坊ノカタハラニ近ク並テ勤操ト云僧アリ又 身マツシクテツトメアリ栄好トシタシキ友トシテ年ヲヘテ此事ヲ キテ朝ニ壁ヲヘタテテキクニ栄好カ童子今日ノ飯ヲウケ置テ カクシ忍テナクコヱアリ勤操アヤシヒテヒソカニ童ヲヨヒテ何事ニヨ リテ泣ソトトヘハ答テ云クケサ師ノ僧ツツカナクシテ俄ニオハリタリ マツハヲノレ一人シテイカサマニテヲサメタテマツラムトスラム次ニハ師ノ/n2-46r・e2-43r
飯ニカカリ給ヘル母イカニシテイキ給タラムトスラムト云テ泣ク勤操 カナシヒ思事カキリナシオ乃カ父母ヲワカレタラムカコトシ即ヲシヘテ 云汝サラニオモフヘカラスヲサメム事ハ我ト汝トシテコヨヒモテカクシ天 ム母ヲハ我アヒカハリテ飯ヲワケテヤシナハム汝ステニカハラス飯モ又 アヒ同シスヘテイマハ我ヲタノム事モトノ師ノコトクオモヘ抑ユメユメ此 ヨシヲ母ニシラシムナ年ヲヒヲトロヘタナレハキカハ必ズマトヒ死給ナム 時タカハサラムサキニトク今日ノ飯ヲヲクレトイフ童此事ヲキキテ悲 ノ中ニ喜ヲナス涙ヲ乃コヒテツレナサマヲツクリテ例ノコトクニ飯ヲ/n2-46l・e2-43l
https://dl.ndl.go.jp/pid/1145963/1/46
モテユク涙ノ落ヌヘケレハイフコトモナクシテサシヲキテトクカヘリヌ 母今日ノアシタニ心ハシリシケリコノ夜勤操童トニナヒテ栄好ヲ フカキ山ノウヘニオキツ寺ノ中ニシラセスシテシハラクホカニサリタルト イハシム勤操ヲ乃カ飯ヲワケテモトノコトクニ母ニオクル又童ニタマフ 母トキトキ童ニトフナトカ久クイマセヌト申セトイヘハ童ノ云ツネニ出 立給ヲ御ヲコナヒヒマナク人又キアヒテトマラルル也タタタヒラカニヲハ ストキキヨロコヒテイソカレヌナリコヨヒモマイラレナムトイヒツツ月日ヲ オクル又ノトシノ春人来テ勤操ニ供養ヲタテマツレリセハキ坊/n2-47r・e2-44r
ニ客人アツマリテ童マツコノ事ヲイソキテ飯ヲワクル事シハラク オコタレリ客人シヒテ薬ノ酒ヲススメテ勤操酒ノ気アリテネフリ イリテオトロキテミルニ日ノカケカタフケリ即ワラハニメヲクハセテ例ノ 飯ヲヤリツ母語テ云老ヌル身ノ口惜カリケルハ例ノ時スコシスキツレハ ケサナム心地アシカリツトイフニ童悲ノ心ムネニアマリテタヘスシテ俄ニ フシ丸ヒテナク母アヤシミテ問フカクシハツル事アタハスシテナクナク云 マコトハ御子ハイママテイマスカリツルトヤヲホス去年(コソ)ノソノ月ニハ隠 給ニキト云母イカニイカニトイフママニタヘヲハリヌ童イヨイヨカナシカリテ/n2-47l・e2-44l
https://dl.ndl.go.jp/pid/1145963/1/47
コシラヘヲトロカセトモイカス悔思ヘトモカヒナシ此由ヲ勤操ニ申 勤操カナシヒナク事カキリナシ我モシマコトノ子ナラマシカハカカル事 ハアラマシヤハ我モシ仏ノ制シ給ヘル酒ヲ乃マサラマシカハカタ時モオコ タラマシヤハトイヒツツナキナケクコトネムコロニフカシ今夜同法ノ人七 人ヲカタラヒテモトノ童シタシクソヒテコノ母ヲ石渕寺ノ山ノフモ トニハフリツアクル朝ニ八人ノ僧堂ニ入テシハシ休ム勤操カタラヒテ云 ワレ栄好ニカハリテ其母ヲヤシナヒツ其志イマタ久カラサルニソノ命 已ニタヘニタリナケキテモカヒナシ今ハ後世ヲミチヒカムト思ニ堂/n2-48r・e2-45r
乃ウチニ仏イマス仏ノミマヘニ経イマス見ハ法花経也我等八人シテ 八巻ノ経ヲエタリ因縁アリトイフヘシ七々日ノ忌ノ間ハ此寺ニ来テ 一日ニ一鉢ヲマウケテ一人ニ一巻ヲ講セム年コトノ忌日ニモ今日ノ 八人力ヲ合テ其日ヲヲハリニアテテ四日講ヲ修シテ八巻ノ経ヲ説 ム名ヲハ同法八講トイヒテ年コトニカカシトイヘハノコリノ七人ノ僧 モミナアハレニタウトキ事也必ス可然ト契テ延暦十五年死タリ 四十九日ヨリハシメテ後々ノ年ノ忌日コトニタヘスオコナフ勤操ノ聖 徳世ニホメラレテヲホヤケワタクシ皆タウトフコノ八講イヨイヨ大ニ行フ/n2-48l・e2-45l
https://dl.ndl.go.jp/pid/1145963/1/48
勤操死ニテ後ニヲホヤケ僧正ノ職ヲオクリ給東大寺ノ僧トモ 石渕寺ノ八講タウトキ事ナトキキテ天地院ニシテ代々ニツタヘ オコナフイマニタエスコノ後ニ寺々又皆ハシメ所々ニアマネクヒロ マル或ハ開結経クハヘテ十講ニヲコナフ所モアリ一寺ノ僧力ヲ アハスルコトハ勤操カフルキアトヲ継ナリ五巻ノ日薪ヲ荷事ハ 国王ノ昔ノ心ヲマネフ也八講ノオコリ石渕寺ノ縁記ニ見タリ 薪ヲ荷テ廻メクル讃歎ノ詞云 法花経ヲ我カエシコトハタキキコリナツミ水クミツカヘテソエシ/n2-49r・e2-46r
此哥ハ或ハ光明皇后ノ読給ヘルトモイヒ行基菩薩ノ伝 給ヘリトモ云イマタ不祥 讃ニ曰ク守屋大連ノ愚ナル詞ニカカリテ我国ノ仏経ハ断ヌヘ カリケルヲ厩戸皇子ノカシコキ政ニヨリテ今日マテ法門ハ 所伝也四百歳ヨリ以来幾乃衆生カ知因悟果離苦 得楽尺尊ノ法力アヤシキカナ妙ナルカナ 三宝伝中巻/n2-49l・e2-46l