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中巻 15 奈良京僧
校訂本文
奈良の京に一人の僧あり。常に方等経1)を誦して、世を渡らむがために、銭を蓄はへて妻子(めこ)を養ふ。娘、男して夫(をとこ)の家に住む。
帝姫(ていひめ)安倍天皇2)の御代に、娘の夫、陸奥権掾(みちのおくのごんのじよう)になりて、舅(しうと)の僧の銭二十貫を借りて任国に下る。一年を経て、借銭(しやくせん)一倍になりぬ。わづかにもとの数を返して、いまた利の銭をつぐのはず。
年月を経てなほ徴(はた)り乞ふ。聟ひそかに、「たよりをはかりて、舅を殺してむ」と思ひて、語らひて云はく、「他国に行きて、この銭を返さむ。もろともに行け」と言へば、僧、船に乗りてともに行く。聟、舟人に心を合はせて行く。僧の四つの肢(えだ)を縛りて、海の中に入れつ。
帰りて偽りて妻(め)に云はく、「父大徳、なんぢを見むとて、われとともに渡り来つるを、にはかに荒き浪にあひて、舟、海に沈みて死ぬ。すくひ取らむとしつれども、堪(た)へずなりぬ。われも、ほどほどしくて、わづかに生きたるなり」と言ふ。娘、これを聞きて、大きに泣く。「悲しきかな。ふたたび親の顔見ずなりぬること。われ海の底に行きて、むなしきかばねをだに見む」と泣く。
僧、海の底にありながら、心をいたして方広経3)を誦す。海水去り退(の)きて、居所に来たらず。
二日夜を経て、人、船に乗りて、この所を渡り過ぐ。縄の端浮びて漂ふ。船人、これを取り上ぐるに、縛られたる僧出で来たりぬ。顔色、常のごとし。
船人、大きに奇しびて、「何人(なにびと)ぞ」と問へば、「われはそれなり。盗人にあひて、縛られて落し入れられたるぞ」と答ふ。また問ふ、「いかなる術(ずち)ありて、海に沈みて死なざりつるぞ」と問へば、「われ常に方広大乗経を誦持(じゆぢ)す。その力なるべし」と言ふ。ただし、聟の姓名(しやうみやう)は人に語らず。もとの郷(さと)に帰らむことを願ふ。舟人、これを送る。
聟、落し入れし舅のためにとて、いささか僧供(そうぐ)をまうけて、手づから僧に分かつほどに、舅の僧、面(おもて)を包みて、沙弥(しやみ)のなかにまじりゐて、その施行(せぎやう)を受く。
聟、その顔を見付けて、面(おもて)を赤めて驚きて隠れぬ。僧、笑みを含みて恨みず。忍びてつひにあらはさず。
海の水に溺れず、毒の魚(うを)に呑まれずして、命つひに全(また)きことは、大乗経のあらはなる力なりと知りぬ。
霊異記4)に見えたり。
翻刻
奈良京ニヒトリノ僧アリツネニ方等経ヲ誦シテヨヲワタラムカタ メニ銭ヲタクハヘテ妻子ヲヤシナフ娘オトコシテ夫ノ家ニスム帝姫(テイヒメ) 安倍天皇御代ニ娘ノオトコ陸奥権掾ニナリテ舅(シウト)ノ僧ノ銭廿貫 ヲ借テ任国ニクタル一年ヲヘテ借銭一倍ニナリヌ纔ニモトノカスヲ 返テイマタ利ノ銭ヲツクノハス年月ヲヘテナヲハタリコフ聟ヒソカニ/n2-41r・e2-38r
タヨリヲハカリテ舅ヲコロシテムト思テカタラヒテ云他国ニユキテコノ 銭ヲカヘサムモロトモニユケトイヘハ僧船ニノリテトモニユク聟舟人ニ心 ヲ合テユク僧ノ四ノエタヲシハリテ海ノ中ニ入ツカヘリテ偽テ妻ニ云ク 父大徳汝ヲミムトテ我トトモニワタリキツルヲ俄ニアラキ浪ニアヒテ 舟海ニシツミテシヌスクヒトラムトシツレトモタヘスナリヌ我モ殆シク テ纔ニイキタル也トイフ娘是ヲキキテ大ニナク悲哉二タヒヲヤノカホ ミスナリヌル事我海ノ底ニイキテムナシキカハネヲタニミムトナク僧 海ノソコニアリナカラ心ヲイタシテ方広経ヲ誦ス海水サリノキテ居所/n2-41l・e2-38l
https://dl.ndl.go.jp/pid/1145963/1/41
ニキタラス二日夜ヲヘテ人船ニノリテコノ所ヲワタリスク縄ノハシウカヒ テタタヨフ船人是ヲトリアクルニシハラレタル僧イテキタリヌ顔色ツネ ノコトシ船人大ニアヤシヒテ何人ソトトヘハ我ハソレ也盗人ニアヒテシハ ラレテヲトシイレラレタルソト答フ又問フイカナルスチアリテ海ニシツミ テシナサリツルソトトヘハ我常ニ方広大乗経ヲ誦持スソノチカラナル ヘシトイフ但聟ノ姓名ハ人ニカタラスモトノサトニカヘラム事ヲネカフ 舟人コレヲ送ル聟落入シ舅ノタメニトテ聊僧供ヲマウケテテツカラ 僧ニワカツホトニ舅ノ僧ヲモテヲツツミテ沙弥ノナカニマシリヰテ其施/n2-42r・e2-39r
行ヲウク聟ソノカホホミツケテ面ヲアカメテヲトロキテカクレヌ僧ヱ ミヲフクミテウラミスシノヒテツヒニアラハサス海ノ水ニオホレス毒ノ魚 ニ乃マレスシテ命ツヰニマタキ事ハ大乗経ノアラハナルチカラナリト シリヌ霊異記ニ見ヘタリ/n2-42l・e2-39l