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text:sanboe:ka_sanboe2-14

三宝絵詞

中巻 14 楢磐島

校訂本文

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楢磐島(ならのいはしま)1)は天武天皇の御代、奈良の右京六条五坊の人なり。大安寺の西郷(にしのさと)に住せり。その寺の修多羅(すたら)分の銭2)四十貫を借り請(う)けて、越前国敦賀津(つるがのつ)に行きて物を買ひて、船に積みて帰るほどに、にはかに病を受けつ。船をとどめて馬を借りて、一人急ぎて家に帰る。

近江国高島郡(たかしまのこほり)にして見返りたれば、男三人付きて来たる。去るほど一丁ばかりなり。山城国宇治橋に至りて、追ひ付きて添ひて行く。

磐島、問ひて云はく、「いづち行く人ぞ」。答へて云はく、「閻羅王宮(えんらわうのみや)より、奈良の磐島を召しに行く使(つかひ)なり」と云ふ。聞き驚きて云はく、「その人はわれなり。何のゆゑにて召すぞ」と。使の鬼の云はく、「まづなんぢが宅(いへ)に行きて問ひつるに、『商ひしに行きて、いまだ帰らず』と言ひつれば、津(つ)に行き求め得たる。そこにしてすなはち捕へむとしつるを、四天王の使といふ者来たりて、『この人、寺の銭を請(う)けて商ひて奉るべし。しばらく免せ」と言ひつれば、家に帰るまで免せるなり。われ日ごろなんぢを求めつるに、飢ゑ疲れたり。もし食(じき)ありや」と言ふ。磐島が云はく、「われ道にてすかむとて、糒(ほしいひ)少しを持ちたり」と云ひて、これを与へて食はせつ。鬼の云はく、「なんぢが病むは、わが気(け)なり。近くは寄らじ。恐るることなかれ」と言ひて、ともに家に至りぬ。

食をまうけて大きに饗(あるじ)す。鬼の云はく、「われは牛の肉を願ひ食ふ。それを求めて食はせよ。世間(よのなか)に牛取る鬼はわれなり」と云ふ。磐島が云はく「わが家にまだらなる牛二つあり。これを与へむ」と「われをば免せ」と云ふ。鬼の云はく、「われ多くなんぢが食を得つ。その恩報ふべし。ただし、もし汝を免しては、われ重き罪を負ひて、鉄(くろがね)の杖をもちて百度打たるべし。もし、なんぢが同年なる人やある」と問ふ。磐島、答へて云はく、「われさらに知らず」と言ふ。

一人の鬼、立ち返りて、「なんぢは何の年ぞ」と問へば、「戊寅の年なり」と答ふ。鬼の云はく、「われ、その年の人のあるを知れり。なんぢが代りにこれを召しかへむ。ただし、免しつる牛は、一つをなむ食ひつる。また、わが打たれむ罪をまぬからしめむがために、三人(みたり)が名を呼ばひて、金剛般若経百巻を読ませ奉れ。われら、一をば高佐丸(たかさまろ)、二をば仲智丸(なかちまろ)、三をば槌丸(つちまろ)といふ」と名乗りて、夜中に出で去りぬ。

明くる朝(あした)に見れば、牛一つ死にたり。すなはち大安寺の南塔院に行きて、沙弥仁耀(にんえう)を請(う)けて、ことのよしを語らひて、その経を読ましむ。二ヶ日(にち)に読みつ。

三日の暁に、使の鬼来たりて云はく、「大乗の力によりて、百杖(ももつゑ)の罪をまぬかれぬ。また常の食(じき)よりほかに、食を増して多く得たり。悦び尊(たふと)ぶること深し。今より後は、節日(せちび)ごとに、わがために功徳(くどく)を行ひ、食を供(く)せよ」と言ひて、たちまちに消え失せぬ。この人、年九十余りにて命終りぬ。

大唐には徳厚3)といひし人、般若の力によりて、閻魔王の召しをまぬかれたり。日本には磐島ありて、寺の銭を請けて、使の鬼の捕ふるをまぬかれたり。

霊異記4)に見えたり。

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翻刻

橘磐嶋ハ天武天皇御代奈良ノ右京六条五坊人也大安
寺西郷ニ住セリ其寺ノスタラ分ノ銭(修理ノ分ノ銭貨)卌貫ヲ借ウケテ
越前国敦賀津ニユキテ物ヲカヒテ船ニツミテカヘルホトニ俄ニ
病ヲウケツ船ヲトトメテ馬ヲカリテヒトリイソキテ家ニカヘル近江
国高嶋郡ニシテ見カヘリタレハ男三人附テ来ル去程一丁許也
山城国宇治橋ニイタリテヲヒツキテソヒテユク磐嶋問テ云
イツチユク人ソ答テ云閻羅王宮ヨリ奈良ノ磐嶋ヲメシニ行
使也ト云キキオトロキテ云其人ハ我也ナニノユヘニテメスソト/n2-39r・e2-36r
使ノ鬼ノ云クマツ汝カ宅ニユキテ問ツルニアキナヒシニユキテイ
マタカヘラストイヒツレハ津ニユキモトメエタルソコニシテ即トラヘム
トシツルヲ四天王ノ使トイフ物来テコノ人寺ノ銭ヲウケテアキ
ナヒテタテマツルヘシ暫ユルセトイヒツレハ家ニカヘルマテユルセル也我
日来汝ヲモトメツルニ飢ツカレタリ若食アリヤトイフ磐嶋カ云我
ミチニテスカムトテ糒スコシヲモチタリト云テコレヲアタヘテクハセ
ツ鬼ノ云汝カヤムハ我ケナリチカクハヨラシヲソルル事ナカレトイヒ
テトモニ家ニイタリヌ食ヲマウケテ大ニ饗ス鬼ノ云我ハ牛ノ/n2-39l・e2-36l

https://dl.ndl.go.jp/pid/1145963/1/39

肉ヲネカヒクフソレヲモトメテクハセヨ世間ニ牛トル鬼ハ我ナリト云
磐嶋カ云我家ニマタラナル牛二アリ是ヲアタエムト我ヲハユル
セト云鬼ノ云我オホク汝カ食ヲエツソノ恩ムクフヘシタタシ若
汝ヲユルシテハ我ヲモキ罪ヲオヒテ鉄ノ杖ヲモチテ百度ウタル
ヘシ若汝カ同年ナル人ヤアルトトフ磐嶋答テ云我更シラスト
イフヒトリノ鬼タチカヘリテ汝ハ何ノトシソトトヘハ戊寅ノ年也ト
コタフ鬼ノ云我其年ノ人ノアルヲシレリ汝カカハリニ是ヲメシカヘム
タタシユルシツル牛ハ一ヲナムクヒツル又我ウタレム罪ヲマヌカラシメム/n2-40r・e2-37r
カタメニ三人カ名ヲヨハヒテ金剛般若経百巻ヲヨマセタテマツレ
我等一ヲハ高佐(タカサ)丸二ヲハ仲智(ナカチ)丸三ヲハ槌丸トイフトナ乃リテ夜
中ニイテサリヌアクル朝ニミレハ牛一死タリ即大安寺南塔院ニユキ
テ沙弥仁耀ヲウケテ(請)事ノヨシヲカタラヒテソノ経ヲヨマシム二ヶ日
ニヨミツ三日暁ニツカヒノ鬼来テ云大乗ノ力ニヨリテモモ杖ノ罪
ヲマヌカレヌ又常ノ食ヨリホカニ食ヲマシテオホクエタリヨロコヒタ
ウトフル事フカシイマヨリ乃チハ節日コトニ我タメニ功徳ヲオコナヒ
食ヲク(供)セヨトイヒテ忽ニキヘウセヌ此人年九十余ニテ命ヲハリヌ/n2-40l・e2-37l

https://dl.ndl.go.jp/pid/1145963/1/40

大唐ニハ徳厚(玄イ)トイヒシ人般若ノ力ニヨリテ閻魔王ノメシヲマヌ
カレタリ日本ニハ磐嶋アリテ寺ノ銭ヲウケテ使ノ鬼ノトラフルヲ
マヌカレタリ霊異記ニミヘタリ/n2-41r・e2-38r

https://dl.ndl.go.jp/pid/1145963/1/41

1)
底本「橘磐嶋」。諸本により訂正。
2)
底本、「スタラ分ノ」に「修理ノ分ノ銭貨」と傍書。ただし、本来は大般若経転読の施入金のこと。
3)
底本「厚」に「玄イ」と異本注記。「徳玄」が正しい。
4)
日本霊異記
text/sanboe/ka_sanboe2-14.txt · 最終更新: 2024/09/21 20:55 by Satoshi Nakagawa