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中巻 13 置染臣鯛女
校訂本文
置染臣鯛女(おきそめのおみたひめ)1)は奈良の尼寺の上座(じやうざ)の尼の娘なり。道心深くして、はじめより男せず、常に花をつみて行基菩薩に奉ること一日も怠らず。
山に入りて花を擿(つ)むに、大きなる蛇(くちなは)の、大きなる蝦(かへる)を飲むを見る。女、悲しびて云はく、「この蝦、われに免せ」と言ふに、なほ呑む。深く悲しぶに堪へずして、「蛇はかくのごとく云ふになむ免すなる」と云ひて、「われ、なんぢが妻(め)とならむ。なほ免せ」と云ふ時に、蛇、高く頭(かしら)をもたげて、女をまもりて、蝦を吐き出だして免しつ。女、「怪し」と思ひて、日を遠くなして、「今七日ありて来たれ」と、たはぶれに言ひて去りぬ。
その夕(ゆふべ)になりて、思ひ出でて恐しかりければ、寝屋(ねや)を閉ぢ穴を塞(ふた)ぎて、身をかためて、内にこもれり。蛇来たりて、尾をもちて壁を叩けども、入ることあたはずして去りぬ。
明くる朝(あした)に、いよいよ怖(お)ぢて、行基菩薩の山寺にゐ給へる所に行きて、「このことを助けよ」と言ふに、答へて云はく、「なんぢ、まぬかるることを得じ。ただ固く戒(かい)を受けよ」と云ひて、すなはち三帰五戒(さんきごかい)を受けて、女、帰る道に、知らぬ翁(おきな)あひて、大きなる蟹を持たり。女の云はく、「なんぢ、何人(なにびと)ぞ。この蟹、われに免せ」と言ふに、翁の云はく、「われは摂津国宇原郡(うはらのこほり)に住めり。姓名は某甲(しかじか)と云ふなり。年七十八になりぬるに、一人の子なし。世を経るにたよりなければ、難波のわたりに行きて、たまたまこの蟹を得たるなり。人に取らせむと契れることあれば、異人(ことひと)には取らせがたし」と云ふ。女、衣(きぬ)を脱ぎて買ふに免さず。また裳(も)を脱ぎて買ふに売りつ。
女、蟹を持ちて寺に帰りて、行基菩薩して呪願(しゆぐわん)せしめて、谷河に放つ。行基菩薩、讃めて云はく、「善哉(よきかな)。貴哉(たふときかな)」と。
女、家に帰りて、その夜頼み思ひてゐたるに、蛇、屋の上より降り下る。大きに恐れて、床を去りて逃れ隠れぬ。床の前を聞くに、踊り騒(はため)く音(こゑ)あり。
明くる朝(あした)に見れば、一つの大きなる蟹ありて、蛇をづたづたと切り置けり。すなはち知りぬ2)、蟹のわが恩を報ひ、わが仏の戒を受けたる力なりと。真偽(まこといつはり)を知らむとて、人を摂津国にやりて、翁の家尋ね問はするに、「この郡郷(こほりさと)に、さらになき人なり」と云ふ。また知りぬ、翁、変化の人なりと。
霊異記3)に見えたり。
翻刻
景染郡臣鯛女(ヲホタイニヨ)ハナラ乃尼寺ノ上座ノ尼ノ娘也道心フカ クシテハシメヨリ男セスツネニ花ヲツミテ行基菩薩ニタテマツル 事一日モ不怠山ニイリテ花ヲ擿(ツム)ニ大ナル蛇ノ大蝦ヲ/n2-37r・e2-34r
ノムヲミル女カナシヒテ云此蝦我ニユルセトイフニ猶乃ム深ク カナシフニタヘスシテ蛇ハ如此云ニナムユルスナルト云テ我汝カ 妻トナラム猶ユルセト云時ニ蛇タカクカシラヲモタケテ女ヲ マモリテ蝦ヲハキイタシテユルシツ女アヤシト思テ日ヲトヲクナシ テ今七日アリテキタレトタハフレニイヒテサリヌ其夕ニナリテ 思イテテオソロシカリケレハネヤヲトチアナヲフタキテ身ヲカタメテ ウチニコモレリ蛇来テ尾ヲモチテ壁ヲタタケトモイルコトア タハスシテサリヌアクル朝ニイヨイヨヲチテ行基菩薩ノ山寺ニ居給ヘル/n2-37l・e2-34l
https://dl.ndl.go.jp/pid/1145963/1/37
所ニユキテコノコトヲタスケヨトイフニ答テ云ク汝マヌカルルコトヲ エシタタカタク戒ヲウケヨト云テスナハチ三帰五戒ヲウケテ女帰 ミチニシラヌヲキナアヒテ大ナル蟹ヲモタリ女ノ云ク汝何人ソ コノ蟹我ニユルセトイフニ翁ノ云ク我ハ摂津国宇原郡ニスメ リ姓名ハ某甲ト云也年七十八ニ成ヌルニ一人ノ子ナシヨヲフルニ タヨリナケレハ難波ノワタリニユキテタマタマコノ蟹ヲエタル也人ニトラ セムトチキレル事アレハコト人ニハトラセカタシト云女キヌヲヌキテ カフニユルサス又裳ヲヌキテカフニウリツ女蟹ヲモチテ寺ニ帰/n2-38r・e2-35r
テ行基菩薩シテ呪願セシメテ谷河ニハナツ行基菩薩ホメテ云 善哉貴哉ト女家ニ帰テ其夜タノミ思テヰタルニ蛇屋乃 上ヨリオリクタル大ニオソレテトコヲサリテノカレカクレヌトコノマヘヲ キクニ踊騒(オトリハタメク)コヱアリアクル朝ニミレハ一乃大ナル蟹アリテ蛇ヲ ツタツタトキリヲケリ即シヌ蟹ノ我恩ヲムクヒ我仏ノ戒ヲウケタ ル力ナリトマコトイツハリヲシラムトテ人ヲ摂津国ニヤリテ翁ノ 家尋トハスルニコノ郡郷ニサラニナキ人也ト云又シリヌ翁変 化人也ト霊異記ニミヘタリ/n2-38l・e2-35l