目次
中巻 11 高橋連東人
校訂本文
高橋の連(むらじ)東人(あづまびと)と云ふは、伊賀国山田郡(こほり)噉代郷(くひしろのさと)の人なり。大きに富みて財(たから)に豊かなり。
死にける母のために法華経を書かしめたり。供養し奉らむとて、堂を飾り法会(ほふゑ)を明日行なむとて、講師求めにやる。使(つかひ)にいましめて云はく、「まづはじめに会はむ人を、わがために有縁(うえん)の師として法会をば行ずべし。形をは求むべからず。必ず請ぜよ」と言ふ。
使、教へに随(したが)ひて門を出づるに、同じ郡の益志郷(ましのさと)に乞者(こつじや)あり。鉢と袋とを臂(ひぢ)にかけて、酒に酔(ゑ)ひ路に臥せり。使、これを見て請じ取りて、家に帰りぬ。願主、会ひて敬ふ。一日一夜、家の内にこもりゐたり。
たちまちに法服を作りて与ふ。乞食、「何わざをし給はむずるぞ」と問へば、「法華経を講ぜむとするなり」と答ふ。乞食また云はく、「おのれは学べる所少なし。ただわづかに般若心経の陀羅尼(だらに)を誦持(ずぢ)して、食(じき)を乞ひて命を養ふ。いかでか経をば講ずべき」と言ふに、願主、なほ免さず。乞食、「ひそかに逃げむ」と思ひゐたり。願主、重ねて疑ひて、人を付けてまもらしむ。
その夜、乞食の夢に、あめなる牝牛(めうし)来たりて云はく、「われはこの宅(いへ)の主(あるじ)の母なり。この家の牛の中に、あめなる牛あり。それをわれと知れ。われ生けりし時、子の物を犯用(ぼんよう)しき。このゆゑに、今、牛の身を受けて、その罪をつぐのふなり。明日、わがために大乗を説くべき師なれば、今夜(こよひ)丁寧(ねむごろ)に告げ知らするなり。実否(じつぷ)を知らむと思はば、説法の堂の内に、わがために座を敷け。われまさに上りゐむ」といふ。夢覚めて、心の内に大きに怪しぶ。
明くる朝(あした)に否(いな)ぶれども、免さねば、高座(かうざ)に上りて云はく、「鄙(いや)しき身、はなはだ愚かにして、もとより悟りもなし。仏に申し、経説くべきことをも知らず。ただ願主に従ふゆゑに、この座に上るなり。ただし、寝ぬる夜(よ)の夢に示さるることあり」とて、その夢を語る。
檀越(だにをち)驚きて、手づから座を敷きつ。宅に帰るあめなる牛来たりて、堂内に上り来て、この座にひざまづきて伏しぬ。願主、大きに泣きて云はく、「まことにわれさらに知らざりけり。年ごろ苦しめ使ひ奉りける、わが心の愚かに悲しくもあるかな。今日このことを知りぬれば、一乗の力、嬉しく尊くもあるかな。今日より後は、いたはり養ひ奉りて、長く使ひ奉ることをとどむべし」と、泣き悲しぶ。牛、このことを聞きて、気(け)を歎き、涙を流す。
法事終るほどに、この牛すなはち死ぬ。来たり集まれるそこばくの人々、声を上げてみな泣く。その声、堂の庭を響かす。「昔よりこのかた、いまだかくのことくのことなし」と奇(あや)しびて、さらにその母がために、重ねて功徳(くどく)を修(しう)す。
すなはち知りぬ、願主の恩を報いむと思ふ心のねむごろに、まことをいたせる力なり。乞食、神呪(しんじゆ)を持(たも)てる験'(しるし)なり。霊異記1)に見えたり。
翻刻
高橋ノ連(ムラシ)東(アツマ)人ト云ハ伊賀国山田郡噉代(クヒシロ)郷ノ人也大ニ冨 テタカラニユタカ也シニケル母ノタメニ法花経ヲカカシメタリ供養シ タテマツラムトテ堂ヲカサリ法会ヲアスヲコナハムトテ講師モト メニヤル使ニイマシメテ云クマツハシメニアハム人ヲワカタメニ有縁ノ 師トシテ法会ヲハ行スヘシ形ヲハ不可求必ス請セヨトイフ 使ヲシヘニ随テ門ヲイツルニ同郡ノ益志郷ニ乞者アリ/n2-34r・e2-31r
鉢ト袋トヲ臂ニカケテ酒ニヱイテ路ニフセリ使コレヲミテ 請シトリテ家ニカヘリヌ願主アヒテウヤマフ一日一夜家内ニコモ リヰタリ忽ニ法服ヲツクリテアタフ乞食ナニワサヲシ給ハムスル ソトトヘハ法花経ヲ講セムトスル也トコタフ乞食又云オノレハ マナヘル所スクナシタタワツカニ般若心経陀羅尼ヲ誦持シテ食ヲ コヒテ命ヲヤシナフイカテカ経ヲハ講スヘキトイフニ願主ナヲユル サス乞食ヒソカニニケムト思ヰタリ願主カネテウタカヒテ人ヲ ツケテマモラシム其夜乞食ノ夢ニアメナルメ牛キタリテ云/n2-34l・e2-31l
https://dl.ndl.go.jp/pid/1145963/1/34
我ハコノ宅ノアルシノ母ナリコノ家ノ牛ノ中ニアメナル牛アリ ソレヲ我トシレ我イケリシ時子ノ物ヲ犯用シキコノユヘニ今牛 ノ身ヲウケテ其罪ヲツクノフ也アス我タメニ大乗ヲトクヘキ師 ナレハ今夜丁寧ニツケシラスル也実否ヲシラムト思ハハ説法 ノ堂ノ内ニ我タメニ座ヲシケ我マサニノホリヰムトイフユメ サメテ心ノウチニ大ニアヤシフアクル朝ニイナフレトモユルサネハ 高座ニノホリテ云ク鄙身甚ヲロカニシテモトヨリサトリ モナシ仏ニ申経説ヘキ事ヲモシラスタタ願主ニシタ/n2-35r・e2-32r
カフユヘニコノ座ニノホル也但シネヌルヨノユメニシメサルルコトアリトテ ソノユメヲカタル檀越ヲトロキテテツカラ座ヲシキツ宅ニカヘルアメ ナル牛来テ堂内ニノホリキテ此座ニヒサマツキテフシヌ願主 大ニナキテ云クマコトニ我サラニシラサリケリ年来クルシメ ツカヒタテマツリケル我心ノヲロカニカナシクモアルカナ今日此事ヲ シリヌレハ一乗ノ力ウレシクタウトクモアルカナ今日ヨリノチハイタ ハリヤシナヒタテマツリテナカクツカヒタテマツル事ヲトトムヘシト ナキカナシフ牛コノ事ヲキキテ気(ケ)ヲナケキ涙ヲナカス法事/n2-35l・e2-32l
https://dl.ndl.go.jp/pid/1145963/1/35
オハルホトニコノ牛即シヌ来リアツマレルソコハクノ人々コヱヲアケ テミナナクソノコヱ堂ノ庭ヲヒヒカス昔ヨリコノカタイマタカク 乃コトク乃事ナシトアヤシヒテサラニソノ母カタメニカサネテ功徳 ヲ修ス即知ヌ願主ノ恩ヲムクイムト思フ心ノネムコロニマコト ヲイタセルチカラ也乞食神呪ヲタモテル験也霊異記ニ 見タリ/n2-36r・e2-33r