目次
中巻 4 肥後国ししむら尼
校訂本文
肥後国八代郡(やつしろのこほり)豊服郷(とよぶくのさと)、豊服の君が妻(め)はらみて、宝亀 二年辛亥十一月十五日寅時に一つの肉団(ししむら)を生めり。その形を見れば、明月のごとし。夫妻思はく、「これ良きことにはあらじ」と思ひて、桶に入れて山の岩の中に隠し置きつ。
七日を過(すご)して、行きて見れば、卵子(かひご)のごとくにして開けたり。奇(あや)しき女子あり。父母(ぶも)、喜びて取り返して、乳をふくめて養ふ。よろづの人聞きて、あまねく怪しぶ。
八月を経る間に、にはかに大きになりぬ。身の高さ三尺五寸。おのづからに智(さと)りあり。もの言ふ言葉妙(たゑ)にして、聡明なり。七歳より前(さき)に法華経八巻、華厳経八十巻をみなそらに読む。
出家の心深くして、髪を剃り、法(のり)の衣(ころも)を着て、尼となりぬ。仏道を行ひて、人を教ふ。その声はなはだ尊くして、聞く者、涙を落してあはれぶ。その形人にすぐれて、その身女なりといへども、隠れたる所はありて穴なし。わづかに尿(ゆばり)の道のみあり。
世の人、愚かなる者、これを笑ひて、名付けて猿聖といふ。この国の国分寺の僧ならびに豊前国宇佐大神宮の僧二人、この尼を見て憎みて云はく、「なんぢはこれ外道なり」と言ひて、笑ひ謗(そし)り悩(なや)ましれうずる時に、妖しき人空より来たりて、手をもて二人の僧を爴(つか)む。僧いくばくならずして、ともに死ぬ。
その後、宝亀八年のほど、肥前国佐賀郡(さがのこほり)の大領(だいりやう)佐賀君(さがのきみ)といふ人、安居会(あんごゑ)1)をまうけて、大安寺(だいあんじ)の僧戒明大法師(かいみやうだいほふし)、筑紫国の師にてあるを請じて、八十巻の華厳経を講ずるに、この尼、日々に来たりて座を欠かず、衆の中にありて聴聞(ちやうもん)をす。
講師(かうじ)、この尼を見て詈(の)り恥づかしめて云はく、「何する尼ぞ。みだりがはしく衆中に交りゐる」と言へば、尼、答へて云はく、「仏は大悲の心深く、教へは平等の法(のり)なり。一切衆生(いつさいしゆじやう)のために、今聖教(しやげう)を広め給ふ。何のゆゑにてか、われしも制し給ふ。そもそも説き給ふ経の文(もん)について、すこぶる疑ひあり。すべからく、あながちおぼつかなさを明らめむ」と云ひて、華厳経の偈(げ)を出だして問ふ。講師、よく答ふるにたらず。
この座にある諸(もろもろ)の智徳名僧(ちとくみやうそう)驚き怪しみて、おのおの文(もん)を書きて問ふ。試みる2)に、尼よく一々にこれを答へて、憚ることなし。
その時に、衆中、敬ひ尊びて、「聖の跡を垂れ給へるなりけり」とさだめつ。名をば舎利菩薩(しやりぼさつ)と申す。道俗ことごとくなびき帰依恭敬(きえくぎやう)す。これを教主(けうしゆ)として、みなその教へに随(したが)ひき。
昔、仏3)在世の時、舎衛国(しやゑこく)の須達長者(すだつちやうじや)の娘、蘇曼(そまん)といひしが生めりし卵子(かいご)十枚は、男子(なんし)十人となりて、みな羅漢果(らかんくわ)を得たり。伽毘羅城(かびらじやう)の長者の妻(め)はらみて一つの肉団(ししむら)を生めりし、七日を経て肉団開けて、百人の童子ありて、一時に出家して、百人ながらともに羅漢の果を得たり。わが朝にも生まれたりける肉団を、古(いにしへ)になづらへつべしと、霊異記4)に見えたり。
翻刻
肥後国八代郡豊服郷豊服の君か妻ハラミテ宝亀 二年辛亥十一月十五日寅時ニ一乃肉団(シシムラ)ヲムメリソノカタ/n2-26r・e2-23r
チヲミレハ明月ノコトシ夫妻ヲモハクコレヨキ事ニハアラシ ト思テ桶ニ入テ山ノイハノ中ニカクシヲキツ七日ヲスコシテ ユキテミレハカヒコノコトクニシテヒラケタリアヤシキ女子アリ 父母ヨロコヒテトリカヘシテ乳ヲフクメテヤシナフヨロツノ人 キキテアマネクアヤシフ八月ヲフルアヒタニ俄ニ大ニナリヌ身ノ タカサ三尺五寸ヲノツカラニサトリアリ物いふ事ハ妙ニシテ聡明 ナリ七歳ヨリサキニ法華経八巻花厳経八十巻ヲミナソラニ ヨム出家ノ心フカクシテカミヲソリノリノ衣ヲキテ尼ト成ヌ/n2-26l・e2-23l
https://dl.ndl.go.jp/pid/1145963/1/26
仏道ヲ行テ人ヲオシフソノコヱ甚タウトクシテ聞モノナミ タヲヲトシテアハレフ其形人ニスクレテ其身女ナリトイヘ トモカクレタル所ハアリテアナナシワツカニ尿ノミチノミアリ 世ノ人オロカナル物コレヲワラヒテナツケテ猿聖トイフ此国ノ 国分寺僧并豊前国宇佐大神宮ノ僧二人コノ尼ヲミテニク ミテ云ク汝ハコレ外道ナリトイヒテワラヒソシリナヤマシレウス ル時ニアヤシキ人ソラヨリ来テ手ヲモテ二人ノ僧ヲ爴(ツカム)僧イク ハクナラスシテトモニ死ヌ其後宝亀八年ノホト肥前国/n2-27r・e2-24r
佐賀郡ノ大領佐賀君とイフ人阿含会ヲマウケテ大安 寺ノ僧戒明大法師筑紫国ノ師ニテアルヲ請シテ八十巻ノ 花厳経ヲ講スルニ此尼日々ニ来テ座ヲカカス衆ノ中ニアリ テ聴聞ヲス講師此尼ヲミテ詈恥シメテ云ナニスル尼ソミタリ カハシク衆中ニマシリヰルトイヘハ尼答テ云ク仏ハ大悲ノ心深ク 教ハ平等ノ法也一切衆生ノタメニイマ聖教ヲヒロメ給ナニ ノユヘニテカ我シモセイシ給抑説給経ノ文ニツイテスコフルウタ カヒアリスヘカラクアナカチオホツカナサヲアキラメムト云テ華厳/n2-27l・e2-24l
https://dl.ndl.go.jp/pid/1145963/1/27
経ノ偈ヲイタシテ問講師ヨクコタフルニタラス此座ニアル諸ノ 智徳名僧ヲトロキアヤシミテ各文ヲ書テ問心ミルニ尼ヨク 一々ニ是ヲコタヘテハハカルコトナシ其時ニ衆中ウヤマヒタウトヒテ 聖ノ跡ヲタレ給ヘルナリケリトサタメツ名ヲハ舎利菩薩ト申 道俗コトコトクナヒキ帰依恭敬スコレヲ教主トシテ皆ソノ 教ニ随キ昔仏在世ノ時舎衛国ノ須達長者ノ娘蘇曼 トイヒシカ生リシ卵子十枚ハ男子十人ト成テ皆羅漢果ヲ エタリ伽毘羅城ノ長者ノ妻ハラミテ一ノ肉団ヲウメリシ/n2-28r・e2-25r
七日ヲヘテ肉団ヒラケテ百人ノ童子アリテ一時ニ出家シテ 百人ナカラトモニ羅漢ノ果ヲエタリ我朝ニモ生タリケル肉 団ヲ古ニナツラヘツヘシト霊異記ニミヘタリ/n2-28l・e2-25l