text:sanboe:ka_sanboe2-03c
目次
中巻 3 行基菩薩(3)
校訂本文
また、天皇1)、東大寺を作り給ひて供養し給はむずるに、講師(かうじ)には行基菩薩を定めて宣旨を給ふに、「行基はそのことに耐へず侍り。外国より大師来給ふべし。それなむつかうまつるべき」と奏すれば、供養せむとするほどになりて、摂津国の難波の津に、「大師の迎へ」とて行く。
すなはち公(おほやけ)に申し給ひて、百僧をひきゐたり。ついでに行基は第一日に当たり給へり2)。治部(ぢぶ)・玄蕃(げんばん)・雅楽司(うたのつかさ)等を船に乗り加へて、音楽を調(ととの)へて行き向ふに、難波の津に至りて見れば人もなし。
行基、閼伽(あか)一具をそなへて、その迎へに出だしやる。花を盛り香を焼(た)きて、潮の上に浮ぶ。乱れ散ることなし。はるかに西の海に浮び行く。またしばらくありて、小船に乗りて婆羅門僧正(ばらもんそうじやう)名は菩提といふ僧来たれり。閼伽またこの船の前に浮びて、乱れずして帰り来たれり。
菩薩は南天竺より、東大寺供養の日にあはむとて、南海より来たれり。船より浜に寄せて下りて、互ひに手を取り喜び笑めり。
行基菩薩、まづ歌を読みて曰はく、
霊山の釈迦の御前(みまへ)に契りてし真如(しんによ)朽ちせずあひ見つるかな
婆羅門僧正、歌を返して曰はく、
迦毗羅衛(かびらゑ)にともに契りしかひありて文殊の御皃(かほ)あひ見つるかな
といひて、ともに京(みやこ)3)に上り給ひぬ。ここに知りぬ、行基はこれ文殊4)なりけりと。
天平勝宝元年二月二日終りぬ。時に年八十なり。居士小野仲麿撰日本国名僧伝並びに僧景戒が造れる霊異記5)等に見えたり。
翻刻
クユ又天皇東大寺ヲ作給テ供養シ給ハムスルニ講師 ニハ行基菩薩ヲ定テ宣旨ヲ給ニ行基ハ其事ニタヘス 侍リ外国ヨリ大師来給ヘシソレナムツカウマツルヘキト 奏スレハ供養セムトスルホトニ成テ摂津国ノ難波ノ津ニ 大師ノムカヘトテユク即オホヤケニ申給テ百僧ヲヒキ ヰタリ次ニ行基ハ第一日ニアタリ給ヘリ治部玄蕃 雅楽司等ヲ船ニノリクハヘテ音楽ヲ調(トトノヘ)テユキ向ニ難 波ノ津ニイタリテミレハ人モナシ行基閼伽一具ヲソナ/n2-25r・e2-22r
ヘテソノムカヘニイタシヤル花ヲモリ香ヲタキテ潮ノ上 ニウカフミタレチルコトナシハルカニ西ノ海ニウカヒ行又シハラ クアリテ小船ニノリテ婆羅門僧正名ハ菩提トイフ僧来 レリ閼伽又コノ船ノ前ニウカヒテミタレスシテ帰来レリ 菩薩ハ南天竺ヨリ東大寺供養ノ日ニアハムトテ南海ヨ リ来レリ船ヨリ濱ニヨセテヲリテタカヒニ手ヲトリ 喜ヱメリ行基菩薩先読哥曰 霊山ノ尺迦ノミマヘニ契テシ真如クチセスアヒミツルカナ/n2-25l・e2-22l
https://dl.ndl.go.jp/pid/1145963/1/25
婆羅門僧正返哥曰 迦毗羅衛ニトモニ契シカヒアリテ文殊ノ御皃アヒミツルカナ トイヒテトモニ宮コニ乃ホリ給ヌ爰ニ知ヌ行基ハ是文 殊ナリケリト天平勝宝元年二月二日ヲハリヌ時ニ年八 十也居士小野仲麿撰日本国名僧伝并僧景誡造 霊異記等ニ見タリ/n2-26r・e2-23r
text/sanboe/ka_sanboe2-03c.txt · 最終更新: 2024/09/05 21:56 by Satoshi Nakagawa