目次
中巻 3 行基菩薩(2)
校訂本文
天朝(あめのみかど)1)、深く尊び給ひて、一向(ひたすら)に師とし給ひて、天平十六年冬、はじめて大僧正の職を授け給ふ。度者(どしや)四百人を給ふ。
時に智光大法師と云ふ僧あり。智(さと)り2)徳3)見てる大師なり。大僧正4)、名徳(みやうとく)高く広くして、あまたの経論の疏(そ)を作り伝へ、法を広めて、世に尊みらるるを嫉(そね)み妬(ねた)みて云はく、「われは智(さと)り深き大僧なり。行基は智り浅き沙弥なり。何によりてか公(おほやけ)彼をば尊み、われをは捨て給ふぞ」と恨みて、河内国鋤田寺(すいたでら)に行きてこもりゐぬ。
しかる間、にはかに病を受けて死ぬ。十日と云ふに蘇生して云はく、「閻羅王の使、われを召して行くに、道のままに見れば、金(こがね)の宮殿を飾り作れる所あり。この使に問ふに、答へて云はく、『これは行基菩薩の生まれ給ふべき所なり」と云ふ。また行けば、熱き煙(けぶり)立ち覆ふ所あり。また問へば、答へて云はく、『なんぢが生まるべき大地獄ぞ』と言ふ。すなはち至り付きたれば、鉄(くろがね)の笞(しもと)をもちて打ち、鉄の火の柱を抱(いだ)かしむるに、肉(しし)乱れ、骨砕け、また諸(もろもろ)の苦を受くることはかりなし。閻羅王の云はく、『なんぢ豊葦原(とよあしはら)の水穂国(みづほのくに)にある行基菩薩を謗(そし)り妬(そね)める罪、はなはだ重し。それを勘(かむが)へ給はむとて召しつるなり。今は率(ゐ)てて帰りね』と仰せ給ひて、使をそへて帰し免し送りつるぞ」と言へり。
すなはち、その罪をあらはさむがために、行基菩薩の難波におはしまして、橋を造り、江を掘り、船を渡し、木を植ゑ給ふ所に、杖にかかりて尋ね至りぬ。行基菩薩、暗にその心を知りて、微笑(ほほゑ)みて云はく、「何によりてか、目を見合はすることかたく覚ゆる」と言へば、智光いよいよ恐り恥ぢて、涙を流して咎(とが)を悔ゆ。
翻刻
ノコトキノアヤシキコト甚オホシ天朝(アメノミカト)フカクタウ トヒ給テ一向ニ師トシ給テ天平十六年冬ハシメテ 大僧正ノ職ヲサツケ給度者四百人ヲ給于時智光大 法師ト云僧アリサトリ(智)トク(徳)ミテル大シ也大僧正名徳 タカクヒロクシテアマタノ経論ノ疏ヲ作伝ヘ法ヲヒロメ テヨニタウトミラルルヲソネミネタミテ云ク我ハ智深キ 大僧也行基ハサトリアサキ沙弥也ナニニヨリテカおほ ヤケ彼ヲハタウトミ我ヲハステ給ソトウラミテ河内国/n2-23l・e2-20l
https://dl.ndl.go.jp/pid/1145963/1/23
鋤田(スイタ)寺ニユキテ籠居ヌ然間俄ニ病ヲウケテシヌ 十日ト云ニ蘇生シテ云閻羅王ノ使我ヲメシテユク ニ道ノママニミレハ金ノ宮殿ヲカサリツクレル所アリ此使 ニ問ニ答テ云是ハ行基菩薩乃生給ヘキ所也ト云又 ユケハアツキケフリタチオホフ所アリ又トヘハ答云汝カ 生ヘキ大地獄ソトイフ即イタリ付タレハクロカネノシモ トヲモチテウチ鉄ノ火ノ柱ヲイタカシムルニ肉ミタレ 骨クタケ又諸ノ苦ヲウクル事ハカリナシ閻羅王ノ/n2-24r・e2-21r
云ク汝豊葦原ノ水穂国ニアル行基菩薩ヲソシリソネメ ル罪甚タヲモシソレヲカムカヘ給ハムトテメシツルナリ 今ハヰテ帰ネト仰給テ使ヲソヘテカヘシユルシヲクリツ ルソトイヘリ即其罪ヲアラハサムカタメニ行基菩薩ノ難波 ニヲハシマシテ橋ヲツクリ江ヲホリ船ヲワタシ木ヲウヘ給 所ニ杖ニカカリテ尋イタリヌ行基菩薩暗ニソノ心ヲシリテ ホヲヱミテ云ナニニヨリテカ目ヲミアハスル事かたくおほ ユルトイヘハ智光イヨイヨヲソリハチテ涙ヲナカシテトカヲ/n2-24l・e2-21l
https://dl.ndl.go.jp/pid/1145963/1/24
クユ又天皇東大寺ヲ作給テ供養シ給ハムスルニ講師/n2-25r・e2-22r