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中巻 1 聖徳太子(7)
校訂本文
ここに太子1)、斑鳩(いかるが)の宮におはしまして、妃に語らひ給ふ。湯浴(あ)み頭(かしら)洗ひ給ひて、浄衣(じやうえ)を着給ひて、「われ今夜(こよひ)去りなむ」と宣ひて、床を並べて臥し給ひぬ。
明くる朝(あした)に日たくるまで起き給はず。人々怪しみて、御殿(ごてん)の戸を開けて見るに、共に隠れ給ひにけり。御顔、もとのごとし。御香、ことに香ばし。御年四十九なり。終り給ふ日、黒駒(くろこま)いななきよばひて、草水を食(は)まず。御輿(みこし)にしたがひて、墓に至る。一度いななきて、倒(たふ)れて死ぬ。その屍(かばね)を埋(うづ)む。
太子隠れ給ひし日、かの衡山より持て来たり給へりし経は、にはかに失せぬ。いまだ寺にある経は、妹子が持て来たりしなり。新羅(しんら)より奉れりし釈迦仏の像は、いまに山階寺(やましなでら)の東の堂にすゑ奉れり。百済国(はくさいこく)の石像、今の古京の元興寺(ぐわんこうじ)の東の堂に置き奉れり。
太子、四天王寺・法林寺・元興寺・中宮寺(なかみやでら)・橘寺(たちばなでら)・蜂岡寺(はちをかでら)・池後寺(いけしりでら)・葛城寺(かつらぎでら)・日向寺(ひうがでら)等を造り給へり。
太子、三つの名あり。一つには厩戸皇子(むまやどのみこ)2)と申しき。王の厩(むまや)のもとにして生まれ給ひ、十人(とたり)一度(ひとたび)に愁へ申すことをよく聞きて、一事(ひとこと)を漏らさずことはり給ふによりてなり。
二つに聖徳太子(しやうとくたいし)と申す。生まれ給ひての振舞ひ、よそをひ、みな僧に似給へり。勝鬘経(しようまんきやう)・法華経等の疏(そ)を作り、法を広め、人を渡し給ふによりてなり。
三つに上宮太子(じやうぐうたいし)と申す。推古天皇の御世に太子を王宮の南に住ましめて、国の政(まつりごと)をひとへに知らしめ給ふによりてなり。
翻刻
皆驚アヤシムココニ太子イカルカノ宮ニオハシマシテ妃ニカ タラヒ給ユアミカシラアラヒ給テ浄衣ヲキ給テ我今夜 サリナムトノ給テ床ヲナラヘテフシ給ヌアクル朝ニ日タクル マテヲキ給ハス人々アヤシミテ御殿ノ戸ヲアケテミルニ共ニ/n2-17l・e2-14l
https://dl.ndl.go.jp/pid/1145963/1/17
カクレ給ニケリ御カホモトノコトシ御香コトニ香シ御年四十九也 終給日黒駒イナナキヨハヒテ草水ヲハマス御輿ニシタカ ヒテ墓ニイタル一度イナナキテタフレテシヌソノカハネヲ ウツム太子カクレ給シ日彼衡山ヨリモテキタリ給ヘリシ経ハ 俄ニウセヌイマタ寺ニアル経ハ妹子カモテキタリシナリ 新羅ヨリタテマツレリシ尺迦仏ノ像ハイマニ山階寺乃 東ノ堂ニスヘタテマツレリ百済国ノ石像今ノ古京ノ 元興寺ノ東ノ堂ニオキタテマツレリ太子四天王寺法/n2-18r・e2-15r
林寺元興寺中宮(ナカミヤ)寺橘寺蜂岡寺池後(シリ)寺葛城寺日 向寺等ヲ造給ヘリ太子三ノ名アリ一ニハ厩戸皇子(八耳ノ王子ト云)ト 申キ王ノムマヤノモトニシテ生給十人一度ニ愁申コトヲ ヨクキキテ一コトヲモラサス事ハリ給ニヨリテ也二ニ聖徳太 子ト申生給テノフルマヒヨソヲヒミナ僧ニニタマヘリ勝鬘 経法花経等ノ疏ヲツクリ法ヲヒロメ人ヲワタシ給ニヨリテ也 三ニ上宮太子ト申推古天皇ノ御世ニ太子ヲ王宮ノ 南ニスマシメテ国ノ政ヲヒトヘニシラシメ給ニヨリテ也/n2-18l・e2-15l
https://dl.ndl.go.jp/pid/1145963/1/18
日本紀平氏撰聖徳太子上宮記諾楽古京薬 師寺沙門景戒撰日本国現報善悪霊異記等ニ 見タリ/n2-19r・e2-16r